日本の旅 第70回 岐阜城・加納城と川原町の古い街並み〜岐阜県岐阜市
岐阜県南西部の商工業都市で岐阜県の県庁所在地。1889(明治22)年に市制施行し、周辺の町村を合併しながら市域が拡大。1996(平成8)に中核市に移行。面積は195.12km2(一部境界未定)。人口は約40万人(2004年)。
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1.斎藤道三・織田信長ゆかりの岐阜城 |
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今回は岐阜です。
岐阜は斎藤道三や織田信長の舞台としてあまりに有名で、数々のゆかりの場所が残っています。そんな岐阜の魅力を紹介すべく、今回は「岐阜城」及び麓に広がる古い街並みである「川原町」、それから斎藤道三が最期を迎えた「鷺山城」、江戸時代の岐阜の政治の中心であった「加納城」、斎藤道三が美濃を支配するまで美濃守護・土岐市の本拠だった「川手城」、それから2005年3月に廃止となった、名古屋鉄道の路面電車などを御紹介していきたいと思います。 まずは岐阜城。 JR岐阜駅側にある名鉄新岐阜駅から岐阜・名鉄・市営バス岐阜公園前下車。 写真を見て頂けると解りますが、天守閣の場所がとにかく高い。標高329mとか。途中までロープウェイを使うことになります。乗客が多いと臨時便もでますので、待ち時間はそんなに気になりません。 さて、この城は今から800年ほど前(つまり鎌倉時代)に二階堂行政が築城したものがその起源です。その後、戦国時代になると美濃守護として当地を支配する土岐頼芸(よりしげ)に取り入り、信任を得た通称「マムシ」こと斎藤道三が、1539(天文8)年に「稲葉山城」として築城します。 その後、斎藤道三は土岐頼芸を追い出し美濃を支配するも、息子斎藤義龍に城を譲って、近くの鷺山城に隠居しました。ところがどっこい、義龍は何と土岐頼芸の子供だった・・・ということで(果たして実際はどうか解らないのですが)、ともあれ道三が娘婿の織田信長を気に入り、熱烈に力を入れて支援したこともあったのでしょう、二人は仲違いし、ついに義龍は道三と戦をして殺しました。 この時信長は、道三を救うべく出陣しますが、まだ小勢力であり上手く行かずに撤退します。そして、この義龍はなかなか力量の人物であったようで信長の美濃攻略を許しませんでした。ところが、義龍は早死にしてしまいます。そして後を継いだ子の斎藤龍興は大したことのない人物。一方、織田信長は桶狭間の戦いで今川義元を破り勢力拡大。1564(永禄7)年、龍興は信長との戦いに敗れ、城を明け渡します。 そして稲葉山城は、織田信長の手に渡ります。 信長は、この城と井ノ口という城下の地名を「岐阜」と改め天下布武に向けて動き出します。岐阜城と城下もそれに合わせて大きく発展し、非常に豊かになっていきました。のち、信長は安土城を築城し移りますが、嫡男の織田信忠が岐阜城を任され、引き続き重要な場所として存続します。 ところが、ご存じのように本能寺の変で織田信長・信忠は両方とも明智光秀に倒されます。その後、岐阜城は信長三男の織田信孝、それから池田元助、池田輝政と城主が代わり、信長の孫で、信忠の子である織田秀信を最後の城主として迎えます。 この秀信は、世が世なら織田家を継いで天下に号令をかけるはずが、本能寺の変の後、まだ幼かったため豊臣秀吉に育てられ(と言うか利用され)、「秀」の字ももらって、秀吉子飼いの大名・武将となっていました。 そして秀吉死後、1600年に関ヶ原の戦いが起こりますが、秀信は西軍につきます。関ヶ原の戦いそのものが起こる前に、前哨戦において本拠である岐阜城が攻められ籠城。しかし敗北し降伏。高野山に出家しました。 ちなみに織田家は、織田信長次男・織田信雄の血筋が山形の天童藩として生き残るなど、江戸時代を通じていくつかあります。おお、見事に歴史の解説になってしまった。疲れた方、大変失礼しました。 さて、岐阜城は関ヶ原の戦いの後使われなくなり、天守閣、櫓などは後述する加納城に移されました。 それから時は流れ、昭和31年7月に天守閣が鉄筋コンクリート造りで復興。「それっぽく造った」ニセモノ天守閣として有名ですが、一応、平成の大改修において信長時代を意識したとか。また、荒々しい石垣は必見(ただし、色の濃い部分が当時のもので、綺麗な部分は新しいもの。写真見ると、だいたい解りますね)。また、城を登っていると、石垣の残骸みたいなのが所々に。そして、天守閣からの景色はなかなか。晴れていると、JR名古屋駅のタワーまで見えます。 また、一番下の写真の櫓みたいなのは、昔の武器庫・食料庫を隅櫓造りに復元した岐阜城資料館。昔の楽器などがあって、少しだけ楽しいですが、復元って、はなはだ怪しい・・・。武器庫の隅櫓造りってどういう意味でしょう。 |
2.川原町の街並み |
岐阜に行ったらここを見落とす事なかれ!!
岐阜城の麓に広がる、川原町(港町・玉井町・元浜町)の古い街並みは、起源としては斎藤道三の頃にさかのぼります。道三が、長良川上流で防府に産出する木材や、特産品の美濃紙、関という場所にある刃物を売る時の中継地点として城下町を形成したと考えられています。 江戸時代は尾張藩が支配し、長良川を降る荷船から通行税である船役銀を徴収。もちろん、船に積まれた竹皮、酒、澄み、紙、茶などが取引され、ここには紙問屋、材木問屋などが軒を連ねることになります。その名残が今も残るわけで、なかなか見応えがあります。ちなみに、ここは鵜飼いの地としても有名。鵜飼いは、1300年の伝統を持つ漁法で、かつては宮中の行事であったとか。古式豊かな風折烏帽子と腰みのを着けた鵜匠が、かがり火のなか12羽の鵜をたくみにあやつり、鮎をとるもので、5月から10月にかけて行われます。 それから岐阜市内には、至る所に古い住宅が点在しています。歩くとちょっと面白いですね。 |