お次は坂本龍馬が長崎で活動していた頃に使用された亀山社中。
司馬遼太郎も訪れ、「取り壊し」と言うことで嘆いていた建物ですが、結局個人所有のままボランティア団体が維持・管理して今も大切に保存されています。我々が訪問した頃、開館時間を少し過ぎていたため、ちょうどボランティアのオバチャン達・・・いや、お姉さん達が玄関の鍵を閉めようとしていた時だったのですが、ご厚意で特別に見せてくださいました。この場を借りて御礼申し上げます。
亀山社中
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亀山社中入り口付近
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亀山社中内部
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亀山社中内部
この柱の部分に坂本龍馬は刀を持ったままよく背もたれしていたそうです。よって、刀の模型を貸してくれて、そのポーズで記念撮影してくれます。
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坂本龍馬の像(風頭公園にて)
日本で初めてブーツを履いた・・・というわけで、ここに設置されている像はブーツを履いております。
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いやはや、過去最大級のボリュームでお届けしていますが、もう少しの辛抱ですので頑張ってください。
さて、亀山社中は小高い丘というか山というか、そんな場所に立っているため、登った後は降りないといけません。そこで、来た道とは別ルートで降りることにしたところ、お墓の中に迷い込んでしまいました。
長崎の墓で特徴的なのは、「○○家之墓」と掘られている部分が、金で塗装されているんですね〜。もちろん、されていないのもありますが、たいていはそうです。珍しい。・・・と、最初はそんな呑気な気持ちで氷川相談役と下山していたのですが、下に降りられない・・・。途中で道が無くなっていて、どこに行っても行き止まり。
正攻法では降りられないので、やむなく墓から墓に飛び移り、下へ降りていく羽目になりました。こんなところで夜になったらさぞかし怖い。というか、まさに難攻不落の墓ってかんじですね。
見てください、ビッシリしたから上まで墓で埋め尽くされていて、仮にここに下から侵攻したとしましょう。上に登っている間に、全員守備側から攻撃されて負けますがな。と、これを見て、ここでサバイバルゲームするのを思いついた人。絶対にやめて下さい。
さ、いよいよ最後です。
ここまで結構な数の洋館・近代洋風建築を見てきましたが、最後は中国的になります。ここ崇福寺(そうふくじ)は、1629(寛永6)に明の僧
超然が開山した黄檗(おうばく)宗の唐寺です。三門、第一峰門、大雄宝殿など美しい中国建築、1682年の大飢饉を救ったという大釜があります。
三門 【重要文化財】
1849(嘉永2)年の建築で、龍宮門造りと呼ばれる様式。三門の三とは、空・無想・無作、とか知恵・慈悲・方便とかを表しているそうです。重要文化財。
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第一峰門 【国宝】
1694年に中国の寧波で切組みし、ここに運ばれて作られたと言われています。中国の華南地方によく見られる様式だそうです。
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大雄宝殿 【国宝】
1646年の建築で、長崎市内では最古の建物だそうです。
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鐘鼓楼 【重要文化財】
1728(享保13)年の建築。軸部が唐造り、屋根周りが日本、という日中合同の合作であると言われています。
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いやあ、本当に長くなってしまいましたが、取り敢えず手持ちの写真を使った長崎の紹介は終わり。これでもまだ見るべき場所がたくさんあるので、長崎には驚かされます。それでは皆さん、ごきげんよう。
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