荻外荘公園・大田黒公園・角川庭園〜東京都杉並区〜
jR中央線の荻窪駅南側に広がる閑静な住宅街には、内閣総理大臣を務めた近衛文麿の邸宅である「荻外荘(てきがいそう)」、音楽評論家・大田黒元雄の仕事部屋(洋館)、角川書店の創業者で俳人だった角川源義氏の邸宅が残り、それぞれ荻外荘公園、大田黒公園、角川庭園として敷地とともに建物が公開され、荻窪三庭園と総称されます。
この3つの庭園は至近距離に位置しており、このページではその他の荻窪駅南口周辺の建築とともにご紹介いたします。
(撮影:裏辺金好)
○地図
○荻外荘
1927(昭和2)年に伊東忠太の設計で建築された入沢達吉(大正天皇の侍医頭)の邸宅で、1937(昭和12)年に近衛文麿が購入し、蔵と別棟を増築。第一次近衛内閣発足以来、たびたび重要な政治的会談が開かれ、1940年(昭和15年)7月19日に「東亜新秩序」の建設を確認した「荻窪会談」など、国策決定の場となりました。日本敗戦後の1945年12月16日には、近衛文麿が書斎で自決したほか、戦後は吉田茂が一時借りていたことも。その後は近衛文麿の次男である近衛通隆が居住し、2012(平成24)年に死去すると、地元要望により杉並区が取得の上で保存することになり、豊島区内に移築されていた応接間などを再移築の上で復元が行われ、2024年12月9日(月曜日)から一般公開されています。
玄関
近衛文麿居住時の玄関で、現在地へ再移築されています。
こちらは復元前の様子。応接間や客室などが無い状態です。
玄関
玄関
西園寺公望の筆跡による「荻外荘」の扁額が掲げられています。
応接室
中国風の意匠でまとめられ、床には龍の敷瓦があります。
応接室
天井には龍が描かれた4枚の天井画が貼られています。
来客用手洗い
客間
荻窪会談の舞台となった場所です。
客間
第2次近衛内閣発足を前にした、荻窪会談の際に撮影された写真。左から近衛文麿(次期総理)、松岡洋右(次期外相)、吉田善吾(海相)、東條英機(次期陸相)。この会談の後、日本は独伊と同盟を結び、南進政策を決めました。このほか、1941(昭和16)年10月に対米開戦を回避するための『荻外荘会談』なども開かれています。
食堂
書斎
1945(昭和20)年12月16日、「巣鴨拘置所」への出頭当日の早朝に近衛文麿が服毒自殺した場所。当時の雰囲気を残しています。
居間
茶の間
蔵
近衛文麿居住時に生活用具などを納めていました。
近衛文麿着用の有爵者大礼服(複製)
公爵であった近衛文麿は、襟と袖が紫色の大礼服でした。
荻外荘と近衛文麿
荻外荘と吉田茂
1947(昭和22)年から1948(昭和23)年にかけて、吉田茂が仮住まいとしていました。
荻外荘全景(模型)
○太田黒公園
太田黒公園は、日本で初めて音楽評論の分野を確立した、音楽評論家である大田黒元雄(1893〜1979年)の屋敷跡を杉並区が回遊式日本庭園として整備し、1981(昭和56)年に開園しました。1933(昭和8)年に大田黒氏が仕事部屋として建てた「旧大田黒家住宅洋館」(国登録有形文化財)が残り、氏が愛用していたスタインウェイ社の1900年製造のピアノも展示されています。
正門
奥には樹齢百年のイチョウ並木が続きます。
旧大田黒家住宅洋館 【国登録有形文化財】
○角川庭園
1955(昭和30)年に加倉井昭夫(1909〜1988年)の設計により建築された、角川書店の創業者で俳人だった角川源義氏(1917-1975)の邸宅(国登録有形文化財)を杉並区が譲り受けて、2009(平成21)年から公開しているものです。○その他
旧中田家長屋門
荻窪駅近くに残る長屋門。現地には特に何の解説看板もありませんが、旧下荻窪の名主である中田家の建物だったとか。江戸時代に第11代将軍の徳川家斉が鷹狩を行った際の休憩所として使用するにあたって、農家の建物ではふさわしくないので、武家屋敷風の長屋門を造ったといわれます。また、明治天皇は明治16年に埼玉県飯能の近衛師団の演習の統監される際に立ち寄って以降、小金井に花見へ行く際に毎年立ち寄っていることから、「明治天皇荻窪御小休所」の石碑が建ちます。
1987(昭和62)年に高層ビルが建築される際に、現在の位置に建築場所を変えていますが、御小休所(非公開)とともに現在も保存されています。
西郊ロッヂング 【国登録有形文化財】
1938(昭和13)年に建てられた高級下宿洋館。元々は東京都文京区本郷で下宿屋として創業し、関東大震災を契機に1931(昭和6)年に荻窪へ移転しました。2001(平成13)年に改修されて現在は賃貸住宅になっています。
旅館「西郊」 【国登録有形文化財】
西郊ロッヂングは新館で、これと接続しているのが1931(昭和6)年築の本館。1948(昭和23)年に和風旅館に転換し、現在も営業を続けています。