西日暮里・南千住を歩く〜東京都荒川区〜
今回は荒川区の西日暮里駅と南千住駅周辺の史跡をご紹介。
日暮里・舎人ライナーという新交通システム鉄道誕生によって注目を集めた日暮里駅。東口には「回天一枝」と名づけられた戦国武将・太田道灌の銅像(作者の橋本活道氏と鈴木俊一元東京都知事の命名)があります。太田道灌は、戦国時代初期、扇谷上杉家という、関東管領上杉家の庶流に仕えましたが、築城術に長け、徳川家康が来る前の江戸城などを築城。さらに類い希なる知略で主家を成長させます。
ところがどっこい。
有能すぎる家臣は嫌われる。なんと主君・上杉定正から暗殺されてしまいました。この時に、太田道灌が最期に言った言葉が
「当家滅亡!」
というものだったのですが、言葉通り、扇谷上杉家は間もなく滅亡します。とまあ、この地ゆかりの太田道灌は、ちょっと面白い人物であります。で、東口にも用事がありますが、まずは西口です。
○本行寺
まずは、西日暮里駅西口直ぐの場所にある本行寺。太田道潅の孫、太田資高が開基したものが、1709(宝永6)年にこの地にやってきました。見所と言っては、う〜ん、と言ったところですが、幕末マニアにはちょっとピクッと来る人物の墓があります。徳川慶喜の懐刀として幕府を率いた永井尚志の墓です。あとは、この寺を訪れた小林一茶や、種田山頭火の句碑でしょうか。
それから、太田道灌が見晴らしの良いこの地に、斥候(せっこう)台を築いたと伝える道灌物見塚の跡でもあります(遺構は無し)。それを読んだ小林一茶の句が「陽炎(かげろう)や 道灌どのの 物見塚」で、句碑になっています。
場所は西日暮里3−1−3。
本行寺山門
小林一茶の句碑
○経王寺
何気なく建っている寺でも、実は建物が江戸時代のものだったりします。これもその一つで、入り口にある山門が江戸時代のもので、明治維新の上野戦争の時、敗走した彰義隊隊員が当寺に隠れたため、官軍に包囲され、5月15日に銃撃を受けるのですが、その時の弾痕が今も残っています。場所は、本行寺の直ぐ近く、西日暮里3−2−6 です。
経王寺山門
経王寺山門(弾痕の跡)
○養福寺仁王門
一見すると新しそうに見えますが、これも江戸時代の建築。宝永年間(1704〜11年)の建築と伝えられ、さらに表側には仁王像一対があり、それぞれ「阿(あ)」「吽(うん)」を示しています。
像は1707(宝永4)年のものであるようです。簡素な造りですが、こんな極彩色(?)に塗られて、なおかつ建築が今から300年も前という・・・。場所は、西日暮里3−3−8。
4.諏訪(すわ)神社・諏訪台
諏訪神社社殿
現代の眺めは・・・。
お次は、諏訪神社。ここにある諏訪台という、この神社からの眺めが絶景だったそうで、歌川広重の『名所江戸百景』にも登場しているとか。というわけで撮影してみましたが・・・絶景ねえ。残念ながら、今では見る影もなくなっております。
縄文・弥生時代にも、ここには人が住んでおり、おそらく景色の良さを楽しんでいたのだと思いますが、それから2000年経った我々は、とてもじゃないけど堪能できません。鉄道マニアの私には、ある意味で絶景ですけどね。場所は、西日暮里3−4。
○富士見坂
で、逆に今でも景色が良いのがこちら。
と言っても、写真では全然解りませんが、都内各地に残る富士見坂という地名のうち、この富士見坂は今でも富士山を眺められるそうです。でも、見えないとただの坂ですね(笑)。何となく面白かったので、載せてみました。諏訪神社の直ぐ近くです。
この他日暮里駅西口地区では、渋沢栄一などが眠る谷中霊園とその周辺、近代建築としては台東区立朝倉彫塑館(彫刻家 朝倉文夫の1907年築の住居&アトリエ)などがオススメです。
○日暮里駄菓子問屋街(※現存せず)
日暮里駅の東口前にあったのが、日暮里駄菓子問屋街です。
当時の荒川区のホームページによると、
「昭和30年代を彷彿(ほうふつ)とさせる昔懐かしい光景が広がる。黒糖味のふ菓子やラムネ、ソースせんべいなどの駄菓子のほか、ブリキの玩具やビー玉、おはじきなどの玩具が並べられている。
かつて100軒近くあった店舗も駅前再開発に伴って移動し、現在は9軒となった。当時を懐かしむ親子連れや子ども会のイベントの景品にと買い物する役員、修学旅行の生徒・学生とにぎわいを見せる」
とのことです。う〜ん、でも昭和30年ですか・・・。そこまで古くは見えないなあ・・・。
今はすっかり高層マンションに建て替わってしまいました。レトロな駄菓子屋街がテーマパークで再現される一方、本当の駄菓子屋街が消えるというのは本末転倒ですな、こりゃ。