登場年:1962年
(国内)使用航空会社:現在はなし(日本航空グループ・全日空グループ)
(国内)就航路線:(福岡〜鹿児島・高知・松山・徳島等)
日本の国産旅客機としては戦後唯一の機種。「日本の空は日本の翼で」というキャッチフレーズのもと、日本航空機製造によって戦前に航空機製造にかかわっていた技術者を中心に開発が進められたが、これがYS−11であり、1962年に初飛行に成功し、その後耐空証明を取得し、営業運行に入った。
もともと戦前の軍用機の製造にかかわってきた技術者が中心になって開発を行ったため、旅客機とはいいながら軍用機の性格を色濃く残した機体となっており、また、効率的な開発とは無縁の状況での開発となったため、並外れた耐久性能を誇り、その頑丈さは海外の航空関係者も舌をまいたほどだったという。そのほかにも滑走路の未整備な空港でも運行可能なように短距離離着陸性能が抜群によく、大変重宝されることになる。
当初より、輸出も考慮していたため、開発に目処が立った頃から積極的な営業を行うようになり、その頑丈さなどから受注が相次ぎ、事業の黒字化実現したが、一方で、旅客機の開発の実績がなかったこともあり、信頼を得ることが難しく、安く買い叩かれるようになり、原価割れする状況となった。そのため、受注実績が伸びるほど赤字が膨らむという事態に陥り、事態を重く見た政府は製造中止を決断、最終的には182機の製造で中止となり、その後の開発も進むことなく、1982年には日本航空機製造も解散し、国産旅客機の夢はわずか1機種で挫折することになった。
しかし、YS−11は全日空をはじめとして国内の航空会社で多数が使用され、基幹空港からローカル空港への輸送の主力として活躍、1980年代に一気に進んだジェット化への露払い役として大いに活躍した。また、海外でも多くの機体が活躍し、現在でも日本の空から撤退した機体の一部は外国のローカル線で飛んでいるものもあり、持ち前の頑丈さのため、まだまだ活躍しそうである。
なお、日本の空からは急速に進んだジェット化の波によって活躍の範囲は縮まっていき、2006年の段階では、日本航空グループの日本エアコミューターによって九州を中心とした路線でのみ使用されている状態であるが、2007年以降は国内のすべての旅客機に衝突防止装置を装着することが義務付けられ、費用対効果の面でYS−11にはこの工事が施工されず、結果的に2006年9月で日本の民間航空路から撤退することになった。ただし、衝突防止装置の装着が義務付けられていない海上自衛隊などでは今後もしばらくの間は使用され続けることになる。