特急【日本海】
文字通り日本海縦貫線を完走する「日本海」
(写真:東海道本線 新大阪〜大阪/撮影:デューク)
●基本データ
登場年:1968(昭和43)年運転区間:大阪〜青森/大阪〜函館(※1988〜2006年まで1往復)
元使用車種:14系、20系、24系
●列車の解説
昭和36年の白紙ダイヤ改正で大阪から青森に至る特急列車として「白鳥」が登場し、青函連絡を含めて、日本海縦貫線の利便性は飛躍的に向上していたが、昼行列車である「白鳥」と対をなす夜行列車のほうは整備が見送られており、相変わらず急行「日本海」等に委ねられる形となっていた。この結果・・・というわけでもないのだろうが、「白鳥」の混雑は日増しに激しくなっており、昭和40年には上野行きとの分離がはかられ、編成の増強が実現するが、それだけではさばききれない状態となっていた。
昭和43年の白紙ダイヤ改正で、ついに国鉄は大阪から青森に至る夜行特急列車の設定に踏み切る。ここで白羽の矢がたてられたのが急行「日本海」であり、愛称はそのまま、車両を20系にグレードアップして特急化された。このとき、急行列車の後釜には「きたぐに」が抜擢されている。
「日本海」は青函連絡等の役割も担っていたこともあり、大変好評のうちに運転され、程なくして2往復化された。さらに14系へと置き換えられるなど、東京を発着しないながらも比較的グレードの高い車両が投入される列車となった。その後さらに24系へと置き換えられ、JR化を迎えることになる。
JR化後はJR東日本とJR西日本が1往復ずつ担当することになり、地味ながら個性のある列車へとなっていく。
運転開始後長い間大阪と青森を結んできた「日本海」であったが、昭和63年の青函トンネル開通は運転体系に大きな変化をもたらすことになる。1往復の函館延長であった。
この後は各地でブルートレインが次々と削減されていく中で異例とも言えるほど無風状態が続くことになるが、青函トンネルの通過客の減少と歩調をあわせるように「日本海」も函館〜青森間の利用は低調となり、平成18年3月のダイヤ改正で再び全列車が大阪〜青森の運転となった。
それでも、2往復の運転は継続されており、新幹線等の競合もなく、他の列車に比べれば健闘しているような雰囲気であったが、その体制すらすぐに終わり2008(平成20)年3月改正で1往復への削減となり、JR西日本保有の編成は離脱した。
そして2012(平成24)年3月改正で、「きたぐに」と共に臨時列車化され、定期列車としての歴史を終えることになった。
●ギャラリー
20系時代の寝台特急「日本海」。
(写真:東海道本線 大阪駅/撮影:照山様 禁転載)
24系の寝台特急「日本海」・・・の幕を車両基地にて掲出。
(写真:尾久客車区?/撮影:照山様 禁転載)
(写真:東海道本線 大阪駅/撮影:ひょん君)
トワイライトエクスプレス牽引機のEF81を先頭にした「日本海」
(写真:東海道本線 大阪駅/撮影:ひょん君)
終点の大阪駅に向けてラストスパート。
(写真:東海道本線 新大阪駅/撮影:デューク)
(写真:東海道本線 新大阪駅/撮影:デューク)
(写真:東海道本線 桂川駅/撮影:裏辺金好)
(写真:東海道本線 京都駅/撮影:裏辺金好)
(写真:湖西線 近江高島〜安曇川/撮影:裏辺金好)
秋の奥羽路を行く「日本海」。特急列車の少ない秋田〜青森間では「日本海」の昼寝利用も貴重な特急利用機会となっている。
(写真:八郎潟〜鯉川/撮影:デューク)
函館を出発する「日本海」。ED79による「日本海」の牽引も平成18年3月で消滅した。函館〜青森間は電源車込みで5両という軽装であった。
(写真:函館駅/撮影:デューク)
この編成はJR東日本持ちの編成。「日本海」2・3号に使用される(当時)。
(写真:奥羽本線 秋田駅/撮影:裏辺金好)
出発を待つ「日本海」。JR西日本が担当していた列車は、車両需給の関係で「トワイライトエクスプレス」カラーの電源車が連結されることもあった。これは「日本海」に限らず、JR西日本持ちの列車で24系シリーズでの運転であればありうる。
(写真:函館本線 函館駅/撮影:デューク)
DD51の1号機が「日本海」のヘッドマークを掲げる。DD51が「日本海」を牽引していたのは昭和43年から47年まで。ただ、1号機が牽引したことがあるかは不明。
(写真:碓氷峠鉄道文化村/撮影:裏辺金好)
「日本海」の方向幕。
(撮影:裏辺金好)
「日本海」の方向幕。JR西日本持ちの車両は、黒幕の方向幕となっていた。
(撮影:リン)