大日本史年表(鎌倉時代)
1192年 頼朝、( 征夷大将軍 )に任命され、鎌倉幕府を開く。写真の辺りが頼朝が幕府を開いた場所で、写真手前をのぼると、頼朝の墓へ。ちなみに死後、幕府の建物の場所は移転している。
1199年 頼朝、落馬がもとで死亡。北条氏による暗殺説も。
1203年 2代将軍、源頼家が追放され殺される。弟の実朝が将軍に、北条時政が( 執権 )となる。
1203年 運慶・快慶による( 東大寺南大門金剛力士 )像が完成。
1205年 時政、実朝を暗殺しようとして失脚し、子の義時が執権に。
●北条氏による他氏排斥
1.1200年に梶原景時を討つ。
2.1203年に比企能員を謀殺。
3.1205年に畠山重忠を討つ
4.1213年に和田義盛を討つ
5.1246年に三浦泰村を討つ。<( 宝治 )合戦 >
6.1285年に安達泰盛を討つ。<( 霜月 )騒動 >
1205年 藤原定家・家隆ら、( 新古今 )和歌集を編纂。
1212年 鴨長明が( 方丈記 )を著す。
1219年 実朝、鶴岡八幡宮で頼家の子、公暁に殺される。源氏将軍3代で断絶。
1221年 ( 承久 )の乱。( 後鳥羽 )上皇が兵を挙げ、北条氏打倒・朝廷中心の政治を目指すが、頼朝の妻・北条政子の名演説に感動した御家人に敗北。
朝廷を監視する( 六波羅探題 )が設置される。
1223年 上皇方から没収した地に地頭をおく。彼らは( 新補地頭 )と呼ばれる。
諸国に土地関係の書類、( 大田文 )の作成と提出を命じる。
1225年 連署と( 評定衆 )をおき、執権の手助けをさせる。
1227年 道元、( 曹洞 )宗を広める。
加藤景正が( 瀬戸 )焼を始める。
1232年 北条泰時、鎌倉武士の慣例の明文化、裁判の公平な基準を示すため、
( 御成敗式目 )を制定。
1235年 藤原定家が私撰和歌集( 小倉百人一首 )を著す。
1244年 道元が( 永平 )寺を建立。
1247年 荘園領主が地頭に領地の半分を譲ることで共存をはかる( 下地中分 )がおこる。
1249年 裁判を迅速に進めるため、( 引付衆 )を設置。
1252年 仏教説話集、( 十訓集 )が成立。
1253年 日蓮が( 法華宗 )<または日蓮宗>を開く。
1254年 橘成季が( 古今著聞集 )を著す。
1260年 日蓮が( 立正安国論 )を著す。
1274年 ( 文永 )の役。モンゴル軍が博多に上陸。日本軍は惨敗。しかし、暴風雨が起こり、船が粗悪だったこともありモンゴル軍は壊滅して撤退。ここから神風神話が生まれる(なお、本当のところの勝因はよく解っていない)。
一遍が( 時宗 )を開く。
1280年 阿仏尼が( 十六夜日記 )を著す。
1281年 ( 弘安 )の役。またもモンゴル軍やってくる。が、やっぱり暴風雨と、さすがに今度は準備万端の日本軍の前に敗れ去る。
1282年 無学祖元が( 円覚 )寺建立。
1283年 無住が仏教説話集( 沙石集 )を著す。
1285年 円覚寺舎利殿建立。
1286年 天皇家が皇位継承を巡り二派に分裂。( 持明院 )統と( 大覚寺 )統の二つ。
1293年 九州に( 鎮西探題 )を設置。
( 蒙古襲来 )絵巻の成立。
1297年 ( 永仁 )の徳政令。御家人の借金が帳消しに。質にとられた土地も帰ってくる。しかし、以後金を貸してもらえなくなり、ますます御家人は窮乏。
1321年 ( 後醍醐 )天皇の親政が開始。
1322年 虎閑師錬が( 元亨釈書 )を著す。
1324年 ( 正中 )の変。後醍醐天皇の倒幕計画が露見して失敗。
1325年 卜部兼好が( 徒然草 )を著す。
1331年 ( 元弘 )の変。後醍醐天皇の倒幕計画が露見して失敗。今度は天皇は隠岐に配流となる。
楠木正成、護良親王が挙兵。
1333年 足利高氏の裏切り。高氏が幕府から朝廷方に寝返り、六波羅探題が陥落。
( 新田義貞 )が鎌倉を攻略し、幕府滅亡。
後醍醐天皇、行政・司法などの政務を行う最高機関の( 記録所 )
土地に関する訴訟を担当する( 雑訴決断所 )
京都の警備を担当、新田義貞が長官の( 武者所 )などを設置。