第4回 フォードとGM〜自動車生産から見る経営学
ここで一息
主にこのコーナーでは、アメリカの大統領とその政策を中心に見ているわけですが、それだけがアメリカの歴史ではありません。ちょっとここで大統領の話は休憩にして、今回はアメリカの代名詞とも言える「自動車」の生産について見ていくとしましょう。経営学の領域では、必ず触れられる、フォードとゼネラル・モーターズ(GM)の攻防です。自動車の起源は?
が、本題に入る前に、そもそも自動車って、いつ頃登場したのでしょうか。自動車=英語でautomobileという言葉は、ギリシャ語で「自身の」を意味するautosと、ラテン語で「うごかせる」を意味するmobilisが起源だと言われています。
今につながる自動車の起源ですが、1769年にフランス人のキュニョーが蒸気の力で動く車を製作したのが最初(上写真模型)。ちなみに日本では、田沼意次が本格的な活躍を開始した頃になります。
また、初めて人を乗せられる自動車が出来たのは1801年。
イギリスの発明家リチャード・トレビシック(実用的な蒸気機関車も彼が開発)によって誕生し、街中でのテスト走行に成功します。
さらに、これはオートバイですが、大きくて使いづらい蒸気に代わって、小型のガソリンエンジンを実用化した物をガソリン・エンジンを動力とした乗り物をドイツ人のゴットリープ・ダイムラーが1885(明治18)年に開発しました。
これを同じ年、自動車分野に使用することに成功したのがドイツ人のカール・ベンツです。彼はガソリンエンジンを三輪車に搭載することに成功(この2人は、自動車の父と言われます)。上写真は、その第1号として1886年に製造されたベンツ パテント モトールヴァーゲンのレプリカ(トヨタ博物館所蔵)。ティラー(棒ハンドル)で前輪を操向し、時速15kmの走行が可能です。
そしてアメリカでは19世紀末、馬車の後の部分が独立したような形の自動車が誕生。これは、「馬なし馬車」と言われ、ガスで動く代物でした。
さらに20世紀に入ると直ぐに、車としての形を整えます。上写真は1901年にフランスで発売されたパナール ルヴァッソール B2。フロントエンジン・リアドライブを採った最初の自動車です。
大衆に車を〜フォードの挑戦
そして1902年、アメリカのオールズモビルが発売したカーブドダッシュは、世界初の大量生産方式を採用します。1902年には2,500台、1903年には4,000台、1904年には5,000台が売られるという、当時としては驚異的な数字をたたき出しました。
こうして、登場からあっという間に技術革新をした車でしたが、庶民にはとうてい高嶺の花でした。これを何とか、庶民が気軽に買えるようにしたい、そう考えた人物がいました。ヘンリー・フォード(1863〜1947年 上写真)です。ミシガン州ディアボーン近郊の農家に生まれ、エジソン電気会社で電気工、そしてチーフエンジニアを務めた彼は、仕事を終えると自動車の組み立てに没頭。エジソンの激励もあって、1896年に自動車の組み立てに成功します。そして1903年、彼はフォード社を設立しA型フォード車を発売します。
次に1908年、彼は当時思いもかけない方法で激安の車を作ったのでした。それが、上写真のT型フォード(フォード・モデルT)。最高時速は72kmです。
これを生産するに当たって、とにかく合理的な生産方法を持ち込むわけです。
まず、生産する車をT型フォード1種のみとし、余計な装飾も廃し、さらに色も1912年型からは黒色のみに絞り込みます。つまり、作業を単純化し、同じ物を大量生産するんですね。さらに1913年からは、食肉加工工場を見て思いついたのですが、ベルトコンベアーに車の材料を載せ、各場所に固定して配置された人員に、同じ作業を次々とさせます。
▲1913年型のT型フォード
つまり、AさんはAと言う作業を延々と、BさんはBという作業を延々と、ベルトコンベアーの速さに合わせて同じ作業(部品の取り付け)を繰り返していくわけですね。こうすると、当然AさんはAという作業を上手になりますし、他の作業のために移動したり、準備する事もなくなり、時間が短縮されます。そして、ベルトコンベアーに乗った材料は、Aさん、Bさん、Cさんが次々と部品を取り付けていく事によって、車の形になるのでした。
同時に、Aさん達が取り付ける部品もベルトコンベアーで流されてくるので、部品をとりに行く手間も省け、12時間かかるはずの工程が何と1時間に短縮!
こうして、高品質の製品を低価格(他社の約3分の1)で、さらに労働者の賃金も2倍にという仕組みを実現、この、製品は高品質で低価格、効率よく働く労働者には高い給料、という考え方をフォーディズムと言います。これによって、T型フォードは全米市場を席巻しました。
でも、同じ単純作業を延々とやるって、何の変化もなく、凄く辛い事で(しかも次第に惰性作業になるので、事故も起こりやすい)、同じ部分の筋肉ばかり使うし、人をロボットのごとく使っているなあと思いませんか?
喜劇王チャップリンは、映画「モダン・タイムス」の中でこれを痛烈に批判し、実際、労働者達も次々とやめていきました。賃金が他社の2倍になったのはそのためです。
なお、1908年から1927年までの間に、1500万台以上も生産。その間、ボディーは様々なタイプが登場しましたが、上写真のシャーシ(足回り機構)は基本設計を変えることはありませんでした。
フォード・モデルTツーリング(1927年型)【※撮影:リン】
こちらはフォードTT型バス(模型 交通博物館蔵)。
1923年の関東大震災で打撃を受けた東京の市内電車に代わって、東京都がアメリカから輸入したバスで、フォードT型1.5tトラックのシャーシに家畜輸送格子を改装して急増したもの。800台が受注され、今の都バスの起源となりました。通称「円太郎バス」。
ゼネラルモーターズの反撃
チャップリンの痛烈な皮肉とは裏腹に、やはり安さは誰にも真似できません。こうして街中にはT型フォード車があふれ、もはや他社の付け入る隙はなく、競争に敗退していきました。1904年に、ビュイックとオールズという2つの会社を買収・合併させて誕生した大手自動車メーカーのゼネラルモーターズ(GM)も例外ではなく、一度は持ち直しますが、第1次世界大戦後の不況もあって、大損益を出して創業者デュラントは追い出されてしまいます(ちなみに2度目)。
ですが、ゼネラルモーターズは反撃を開始します。
そして1923年、代わって大株主会社であるデュポン社が社長に選んだのがアルフレッド・スローンという人物です。
そしてスローンは、何と1930年にはフォードを抜いてシェア1位を確保するのでした。どんな手段を使ったのでしょう。
それは、まず前提として「全ての人がT型フォード」に満足しているはずはない、という考えがあげられます。そこで、様々な階層向けに、その階層にあった車を開発。貧しい階層にはとにかく安い車を、しかし裕福な階層もいますから、そこにはとにかく高級な車を提供。毎年モデルチェンジもして、フォード車のシェアを各個撃破する戦略に出ます。って、ちょっと待って下さい。フォード社が成功したのは、車種を一本化して価格を安くしたからです。ゼネラルモーターズのやり方では、なんとかく昔に戻しただけに見えるでしょう。
しかし1つには、まず人々がT型フォードに飽きてきた事があります。みんな個性的な車を求めていたのです。そこを見逃さなかった点が第1点で、さらにスローンは、フォード社や、デュラントのようなワンマン型の社長システムを改め、各部門(事業部)ごとに大幅な裁量を与え、各個がそれぞれ独自の判断で活動できるようにして、柔軟性を持たせます。また、当然社長の命令はきちんと聞かせ、失敗したらその部門は責任を取ります。こうして、それぞれが競争、努力して良い製品を生み出していったのです。
このように、1つの方法が成功したからと言って、それだけに満足していると、また別の方法などに取って代わられます。
1927年にT型フォードの生産を中止し、モデル名を振り出しに戻して上写真のフォードA型にフルモデルチェンジ。その後はゼネラルモーターズなどと共に発展。そして、毎年のモデルチェンジ=さらに力強い車、格好良い=排気量が多い、車体がデカイ、こういう図式が当たり前になってきます。特にスポーツカーが人気になり、当時の日本でも、こういった車に乗る家族の映像を見て憧れたようですね。
ところが、中東戦争が勃発しますと、石油価格が上昇。こんな、燃費のかかる化け物みたいなアメリカの自動車は、とてもじゃないがお金がかかって乗れたもんじゃねえ、と言うことになります。そこで以前は「おもちゃ」として馬鹿にされていた燃費の良い日本車が注目。アメリカの自動車会社は、燃費についての研究を殆どしていなかったので、この日本車にシェアを多く奪われてしまう結果になりました。その日本車も、またいい加減な経営から会社の業績が悪化し、さらに日本から輸出するのでアメリカの労働者から恨まれ、アメリカに逆襲されます。
そこで、自助努力で乗り切ったトヨタなど一部を除けば、カルロス・ゴーンのように海外からも経営者を招き、それまでの体質を一変。また、工場も現地に設置し、現地の企業のごとく活動をする事でアメリカからの抵抗を無くします。こうして今再び、日本車がアメリカで人気である商品になっています。今度は、アフターサービスや壊れにくさが評価されているそうです。
いやはや、経営に答えって無いですね〜。
第5回:第2次世界大戦とアメリカ へ