第9回 ヴェトナム戦争と歴代政権の対応
アメリカに衝撃を与えたヴェトナム
ジョンソン大統領のあと、共和党のニクソンが大統領の座に就きます。
ニクソンは、ヴェトナム戦争の早期終結を訴えて勝利。アメリカ軍の兵力も削減します。ところが、何を隠そう、彼は戦争を拡大します。つまり、アメリカが勝っている状態で、和平を結ぼうと考えたんですね。空爆を大規模にし、また南ヴェトナム軍そのものを強くすることで、まだまだ戦いを続けます。
68年にアメリカ軍が行った、ソンミ村での住民の虐殺事件が明らかになったこともあり、反戦運動はさらに広がりをみせ、そのパフォーマンスもヒッピーに代表されるように音楽を使った物など、様々な形で表現されます。また、日本でも通称「ベ平連」という市民による反戦運動が起こります。ちなみにこれ、社会党・共産党が介入しない市民運動として重要な出来事でした。
72年、戦いはさらに激化し、北ヴェトナム軍は一気に攻勢に出ます。これに対し、アメリカ軍は北爆を強化。俗に言う絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)で、北ヴェトナム地域の奥地に至るまでガンガン爆弾を打ち込みます(これに対する批判には、東京空襲みたいのを絨毯爆撃というんだ、という居直るものまで・・・)。
しかし、結局効果は上がらず、ようやく和平交渉に入ります。
1973年1月27日。パリで和平条約が調印され、ようやくヴェトナム戦争は終結しました。29日、アメリカ地上軍はヴェトナムから撤退しました。これでヴェトナム戦争がようやく終結・・・。
ところがこの時。
「戦争をヴェトナム人の手に返すのだ」
とニクソンは言いました。
つまり、実はヴェトナム戦争は終結しなかったのです。大多数のアメリカ人は、ヴェトナムで戦争をしたことすら堅く口を閉ざし、忘れ、ヴェトナムから帰ってきた帰還兵は犯罪者のごとく冷たい処遇を受ける毎日が続きますが、実は南ヴェトナム政府はまだ北ヴェトナムと戦います。しかも、アメリカ海兵隊、タイを拠点にしたアメリカ空軍、特殊部隊、軍事顧問団も抵抗を続けるのです。アメリカの教科書では1973年終結となっていますが、最終的は、1975年に南ヴェトナム首都サイゴンが陥落し、ようやく終結することになります。
サイゴンから撤退するアメリカ軍の軍艦には、数多くのヴェトナム人が「北ヴェトナム政府に粛清される」事を恐れ、我先にと乗り込みました。サイゴンからアメリカ軍の軍艦までの輸送にはヘリコプターが使われましたが、輸送を完了すると、ヘリコプターはスペースの問題から次々と海に捨てられました。その時の生々しい映像は、NHKの映像の20世紀などで見ることが出来ます。なお、ベトナム戦争ではアメリカ軍5万人以上が戦死、15万人が負傷し、200万人のヴェトナム人が殺されました(数字は諸説あります)。
さらに、戦争の時の恐怖がトラウマになって残るといった、後遺症も残りました。また、このトラウマがきっかけで、こういった精神問題に関する研究が一層進むことになります。ヴェトナム戦争は、良くも悪くも何かと影響を与えたわけです。
健忘から覚醒へ
だいたい73年から75年までの間、人々はヴェトナム戦争を忘れました。しかし、そのうちにヴェトナム戦争を題材にした映画が放映されます。最初は、映画の犯罪者役にヴェトナム戦争帰還兵という設定が使われていたのですが、1979年の「地獄の目次録」。ここで初めて、ヴェトナム戦争におけるアメリカ軍の「悲劇」が描かれていきます。こうして、人々はヴェトナム戦争を思い出していきます。そして、「癒し(Healing)」が盛んに叫ばれるようになりました。最近我々は、癒し系などと使いますが、実はここから来ているのですね。んで、何かヴェトナム戦争を記念した物を造りたい、そう考えた一般の人がいて、賛同者を募ったところ、壮大な話に。こうして、1980年にVVVF(The Vietnam Veterans Memorial Fund)という基金が創設。募金も順調に集まり、議会上院がワシントン・モールという一等地を払い下げると可決しました。
そして、デザインを一般公募。先入観を排除するために、設計者の名前は伏せられ、純粋にデザインだけで選んだ結果、ヴェトナムのVを表したV字型のデザインという(縦にVじゃなくて、空から見下ろした時にV字型に見える)ものが絶賛のうちに決定。一体これをデザインしたのは、どんな有名な建築家だ? と、誰もが不思議に思ったところ、なんとエール大学に通う中国系の1年生の女性、マヤ・イン・リンという人物だったというのだから、みんなビックリ仰天しました。
そのデザインの素晴らしさから、募金もさらに集まります。しかし中には、こんなのは記念碑にならん!と強行に反発したグループもあり、結局、再びデザイン選考が行われたのですが、マヤ・イン・リンのデザインの前には、もはや他のデザインは勝てなかったようです。その代わり、戦う兵士達の像も設置することで妥協し(後に女性団体が反発し、従軍看護婦の像も設置されます)、1982年、記念碑は完成しました。そのV字型のモニュメントの壁には、ヴェトナム戦争でなくなった人の名前が刻まれています。
でも、ちょっと待ってください。
勘の良い読者ならお解りと思うし、解らなくてもそのうち気がつくとは思いますが、(あんまりこういう主観的なことは書きたくないのですけど)結局、アメリカが辛かった戦争というのを表しているわけで、ヴェトナム人については考えていたいわけです。実際、1978年12月に統一ヴェトナムがカンボジアに侵攻するなど(89年9月に撤退)、あまりよろしくない、といったら変ですが、アメリカにとって「アレは正義の戦争だったんだ」と思わせてしまうような出来事が発生したことも影響しています。さて、この記念碑を見て、今後アメリカの人たちはどのような印象をヴェトナム戦争にもっていくのでしょうか。
なお、ヴェトナム独立の英雄ホー・チ・ミンはテト攻勢のあと、1969年9月に亡くなっています。
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