中国史(第2回 秦と始皇帝の時代)
○始皇帝の政治
始皇帝は、法家の人間である李斯を丞相(首相のようなもの)にして、法治主義に基づく政治を行います。また、それまでは各地に有力者に土地を与え、諸侯として政治を行わせるのが一般的でしたが、彼は中央集権主義を目指し、役人を中央から派遣して政治を行わせる「郡県制」を採用しました。こうして全国が郡と、その下に置かれた県によって分けられました。
また、北方の遊牧騎馬民族の対策として「万里の長城」を建設しました。これは、すでに魏や趙など各諸侯が部分部分で建設してあったものを将軍蒙恬がつなぎ合わさせ、遼東半島からオルドス(中国西部)までの距離を結ぶ、1つの長城にしたものです。
なお、今私たちが見る万里の長城(=写真/撮影:七ノ瀬悠紀)は明の時代にモンゴルの侵入を防ぐために大修築を行ったもので、秦の時代はここまで立派ではなく、馬が飛び越えられないようにする程度の土塁程度のものでありました。どうやって作ったかは後述。
で、この万里の長城の建設により、始皇帝は南へ進出する余裕ができ、南越(現在の北ヴェトナム)まで征服します。その他に全国で度量衡(重さや長さなどの単位)、貨幣、文字の統一をし、交通を整備し、経済や文化面で中国を1つの基準にまとめあげました。もちろん、商業の発展に大きく貢献します。 また、中央集権主義的な始皇帝の政治を批判した儒家に対して、徹底的な弾圧を行い、また医薬書や農書などの実用書以外の書物を焼き捨て、儒者を穴に埋めて殺すという「焚書・坑儒」を行いました。おかげで、後世まで始皇帝は悪くいわれることになりました。
そんな力強い(?)始皇帝でしたが、自らの死を非常に恐れました。そのため、年をとるにつれ怪しげな不老不死の思想に染まっていきます。日本でもお馴染み、徐福という人物は、そんな始皇帝から「不老不死の妙薬を取ってくるから金ください」とせびり、日本に来たといわれています。
結局不老不死などできるはずもなく、徐福から薬が届くわけもなく、始皇帝は皇帝の座についてから11年目の時、地方巡幸中に熱病で死亡しました。始皇帝自身は、名声が高かった長男の扶蘇を選ぶつもりでしたが、後継者には、始皇帝の末子・胡亥が選ばれました。これは、宦官の趙高と丞相の李斯が、自分たちに都合のいい人物を選び、始皇帝の遺言だと偽ったからです。そして、扶蘇は趙高によって自殺に追い込まれました。
ところで、前に述べた万里の長城。ここには当時を代表している土木技術、版築という工法が使われています。版築とは、華北でとれる粘土質の黄土を突き固めて壁などを作る工法です。厚さは6〜9cmに保たれます。この程度だと、乾燥すれば固まって、崩れないのです。逆に、乾燥して崩れた場合それは手抜き工事だったことが判明。作業部長(?)が厳罰を受けます。この工法は、万里の長城やその他の中国の建物だけではありません、朝鮮や日本にも伝わり吉野ヶ里(遺跡)など様々な場所で使われました。
始皇帝の兵馬俑
ところで、始皇帝、それから二世皇帝も土木建築マニアでした。
マニアというか、力を示すことが正しいことだと考えたのですね。
先ほども少し書きましたが、特に今も私たちに圧倒的な迫力を見せつけるのが、今の西安、当時の秦の首都・咸陽(かんよう)にある、兵馬俑です(=写真/撮影:七ノ瀬悠紀)。1974年3月に地元農民が井戸を掘り始めたところ、偶然に発見!(この農民の方、今もガイドをやっていらっしゃいます)
そう、これは始皇帝のお墓です。
中からは、始皇帝のお墓を守る意味で造られたであろう膨大な量、しかも1対1体表情の違う武装兵士、馬の塑像が発掘されました。写真に映っているのは一部ですよ!
これを造るために犯罪者が使われましたが、人手が足りないので多くの農民が命令で駆り出され、始皇帝は民衆の憎悪の的になったんですね。さらに、駆り出されると農作業が出来ず、そのために税が払えないと(なんと収穫の3分の2)犯罪者として、やはり労役に駆り出される。しかも、駆り出された人達は、期限までに作業場に到着しないと殺されます。
さらに、到着しても工事が終わると秘密を守るために殺されるというウワサまで・・・法による政治が原因と言うよりも、一般の民衆にとってはむしろこのあたりが秦に対する不満を高めたのかもしれません。反乱が起きないのが不思議なぐらいです。万里の長城だってそうです。延長された部分も含めると、あれだけ長い距離を造ったわけですから、駆り出される人達はたまったものではありません。しかし、この兵馬俑や万里の長城のおかげで私たちは、当時の技術の高さが解るのですから、皮肉なものですね。
皇帝?
ところで、皇帝という言葉がここで初めて出てきたのにお気づきでしょうか?これは、始皇帝が名乗り始めた称号で、以後、中国の君主は「皇帝」を名乗ります。その由来は、大きくは2つ説がありまして、1つは中国古代の伝説上の君主である「三皇五帝」より。もう1つは、皇とは「煌」すなわち光り輝く、美しく、宇宙万物を主宰するという意味からだ、というものです。
もう1つ、始皇帝は独創的なことをしました。
すなわち彼は、死んだ後に贈られる武王、とか孝文王のような生前の業績を反映した称号を嫌い、中立的に始皇帝、二世皇帝、三世皇帝・・・と称号を決めました。しかしこちらは全く定着せず、秦の滅亡と共にしています。
陳勝・呉広の反乱と章邯
始皇帝の政治は、革新的であった一方で、特に当時の人から見ると「法」というものをあまりに重視しすぎた政治でした。また、郡県制に対する保守派の不満、度重なる外征に長城の修築、首都にある咸陽宮と南の阿房宮の造営などが人々の生活を圧迫しました。加えて、始皇帝が死ぬと、二世皇帝胡亥を操る趙高によるいい加減な政治が行われました(それを端的に表すのが、”馬鹿”という言葉の起源となったこの故事)。しかも、相変わらず工事は継続。特に、阿房宮の造営はやめてはどうか、という提言をした官僚もいましたが、処刑。さらに、李斯も趙高によって投獄され、他ならぬ李斯自身が定めた八つ裂きに近い極刑にされてしまいました。こうした中で、蜂起する人々が相次ぎます。
先駆けとなったのが、中国史上初の農民反乱、陳勝と呉広による反乱です。真偽不明ですが、首謀者の陳勝(後から自分で付けた名前らしい。当時、身分の低い人々は名前を持たない人が多かった)の言葉として「王侯将相いずくんぞ種あらんや」というものがあります。王だろうが諸侯だろうが、我々と同じ人間だろ、と言う感じの意味で、実力こそすべてという当時の世相を現すものとして代表的な言葉といえるでしょう。
この陳勝・呉広による反乱は秦の章邯が率いる軍勢により鎮圧されます。しかし、彼らがつけた火は消し止められることなく、楚という国家の名将軍、項燕の子孫である項梁を中心としたグループが勢力を拡大します。そして項梁は、軍師の范増の進言で、楚の王族を探し出し即位させます(懐王)。こうして、戦いのシンボル的存在を確保し章邯と戦った項梁でしたが、定陶の戦いで、ワザと敗北したフリをして撤退した章邯の作戦に油断した項梁は、取り囲まれて殺されてしまいました。
項羽の猛攻
こうして、章邯の名声は大きく上がり、各地で復活しつつあった旧国家群に攻勢を強めていくのですが・・・。なんと、項梁の甥である項羽が獅子奮迅の働きで章邯の軍勢を打ち破っていったのです。章邯は本国に援軍や物資の補給を要請すべく、司馬欣を派遣するのですが、秦の丞相となっていた趙高は「いかん、私が今までのことを皇帝に報告していなかった罪を問われる」と恐れ、司馬欣を皇帝に会わせないばかりか、章邯や司馬欣らの一族を処刑するという暴挙に出ます。
司馬欣も当然、殺されかけるのですが逃走に成功し、章邯の下に帰還。
章邯らは20万の軍勢を率いて、項羽に降伏。叔父を殺された恨みもあった項羽でしたが、章邯には利用価値があると考え、また元々が情に厚い人物でしたので章邯らに深く同情し、降伏を許可します。ところが、この項羽は同時に人の命をなんとも思わない非情さも持ち合わせており、章邯がつれてきた20万の兵士達が、項羽の扱いに不満を持っていると情報を得るや、全て虐殺するという行為に出ました。
章邯、司馬欣、それから董翳という人物は引き続き厚遇されましたが、複雑な立場に立たされることになります。
さて、そうした間に秦の内部では動きがありました。
さすがに二世皇帝の胡亥も秦が滅亡の危機にあることを察知し、趙高の責任を追及することを考えたのですが、なんと趙高の方が先手を打って胡亥を暗殺しました。そして後継者に、趙高らが策略で自殺させた扶蘇の息子、子嬰を選ぶのですが、これは趙高の誤算だった。彼は、その子嬰に殺されてしまったのです。趙高は一族もろとも、やりたい放題の人生に幕を閉じました。
こうして体制を整えなおした秦でしたが、楚の劉邦率いる軍勢の勢いをとめることは出来ず、結局降伏することになりました。
子嬰は在位46日で退位し、秦は滅亡しました。そして、劉邦の軍勢は規律を比較的守り、さらに劉邦の部下の蕭何(しょうか)は秦がまとめた中国各地の様々なデータを差し押さえて、劉邦の軍勢と政治に大きなプラスの効果を与えています。
項羽と劉邦
さて、こうして秦の首都である咸陽に一番乗りした劉邦でしたが、激怒したのは項羽。もともとの約束で、咸陽に一番乗りした人物を関中王にする!ということになっていたのですが、項羽は「オレが必死に章邯と戦っていたから、劉邦ごときが一番乗りできたのだ。本来であれば、オレの手柄のはずだ!」と激怒。項羽に本気で攻められたら、劉邦はたまったものではありません。
軍師の張良の機転のおかげで、うま〜く項羽に弁明することに成功し、劉邦は命拾いします。
こうして項羽は論功行賞を行い、この中で劉邦は漢王として左遷され、中国西部の僻地へと追いやられました。そして、子嬰ら秦王国の人々は項羽によって殺されました。項羽の勢い、とどまるところ知らず!しまいには、楚の懐王も目の上のたんこぶで邪魔だ、というので殺してしまったぐらいです。しかし、劉邦は優秀な部下に囲まれ、着々と反撃の機会を待っていたのでした。
この中で、項羽の下では出世できずに劉邦の元にやってきた韓信という人物の軍事的才能が抜群で、劉邦は彼を大元帥に任命します。
急速に、劉邦の軍勢は強力になっていきました。
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