中国史(第4回 後漢〜復活した漢だが)
○洛陽に都を定めた理由とは?
後漢は、前漢と違って、都を洛陽に定めました。なぜ長安に定めなかったのでしょうか。それは、長安は天然の要害の中にあり、防衛にはよい拠点でしたが、その一方で交通の便が悪いというデメリットがありました。ゆえに、後漢は洛陽に都を定めたのでした。また、前漢と同様、最初は社会秩序の回復のため、対外消極策をとりましたが、まもなく匈奴を討ちます。匈奴は北と南に分裂し、南匈奴は後漢に従い、北匈奴は西へ移動してゆきます。
そして、後漢は西域の経営に力を入れ始めました。さらに、その西域を治める役職である西域都護の班超は、部下の甘英を、当時ヨーロッパと中東アジア地域を支配していたローマ帝国(前27〜394年 それ以降は東西に分離)に送りました。甘英はシリアまで行き、戻っています。
と、ここで疑問が出てくるのは、なぜ甘英はローマまで行かなかったのか、ということですね。
それは、シリアで「ローマまでまだあと4、5年はかかるよ」と脅されホームシックにかかったからです。とんでもない。シリアまで行けば、ローマまでそう長くはありません。しかし、シリアから見ればシルクロードの中継貿易で設けているのに、ローマと漢が直接交易を始めたら、中間マージンが消えてしまいます。そこで、甘英を脅したというのです。ローマと中国が直接交易を行っていたら、歴史はどうなっていたのでしょうか!
また、2世紀中頃にはローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウス=アントニヌス(中国の文献では大秦国王安敦と表記)の使いと名乗るものが、海路でヴェトナム中部におかれていた日南郡に来ます。さらに、古代日本からも、奴国という国(クニ)が、洛陽まで赴き、光武帝より金印を授けられています。これが有名な、「漢委奴国王印」という金印です。
余談ですが、先に述べたとおり匈奴の一部は西へ西へと移動します。これが一説によるとフン族の大移動というもので、フン族(匈奴?)はヨーロッパにたどり着きます。そして、ゲルマン民族を追い出し、追い出されたゲルマン民族は、既に衰退著しかった西ローマ帝国に流入し、帝国を滅ぼしたといわれます。古代から世界はつながっているものですね。
その他、南方に対しては前40年にヴェトナムで漢の暴政に対して起こったチュン(徴)姉妹の反乱を将軍の馬援を派遣し鎮圧しています。チュン姉妹とはハノイ西方の土着首長の娘、徴側(チュンチャク)と徴弐(チュンニー)の姉妹です。前43年に処刑されています。
さて、強勢を誇った後漢でしたが、幼帝が続いたことで、それを取り巻く宦官と外戚が争い、また儒教の教養をつけた官僚や学者が弾圧され(党錮の禁)、地方では豪族が勢力を張り、農民の反乱が起き、大きく衰退し滅亡に向かいます。前漢の滅亡の原因を全然反省していなかったわけです。
○漢代の社会と文化
漢代では、大土地所有が盛んになりました。そして、豪族は多数の奴隷や小作人を使って、耕作させるようになります。奴隷になった人々は、その多くが戦乱で土地を失ったものや、兵役などの負担に苦しんだ人々です。後漢の光武帝は、奴隷解放詔書を出しましたし、それから政府は土地の広さと奴隷の数を制限する限田法を施行しましたが、強大な力を持つ豪族の前に効果はありませんでした。また、儒教が少しずつ盛んになります。武帝が董仲舒の薦めで官学としたのを儒教を始め、歴代皇帝の中に信奉者がでてきます。しかし、それに対し、当時は「無為」をモットーとした老子・莊子の思想である老荘思想、それから法家の思想も盛んでした。皇帝の中でも、例えば宣帝は法家的な思想の持ち主です。
それから、忘れてはいけないのが歴史書です。古代史から漢の成立まで書いた司馬遷の『史記』(古代史の記述は初)、それから班固の『漢書』は、皇帝や、人物ごとに焦点を当てて書かれた紀伝体の傑作として後世に影響しています。ちなみに、これに対してそれまでは、年代順に事件が書かれた編年体が主流でした。
なお、司馬遷といえば、以下のエピソードが有名です。
すなわち、匈奴に攻め込んで、必死に戦ったのにもかかわらず、味方の軍のふがいなさによって、敗北し匈奴に捕まった李陵という人物について、武帝とその取り巻きが弾劾したため、「それはおかしい」とただ一人反対。これに武帝は激怒し、死罪を申し渡しますが、史記を完成させなければならなかった司馬遷は、それよりもっと重い罪である、男の一物を切って宦官になるという道を選びました。
また、漢代には宦官の蔡倫によって紙が改良され、使いやすくなったことで、それまでの木簡・竹簡に代わって普及します。これは文化の発展に大きく貢献することになります。ちなみに紙がヨーロッパに伝わったのは何世紀も後。751年、唐とアッバース朝という王朝が戦い、その中にいた紙職人が、アッバース朝の捕虜になったことで、イスラムに製紙法が伝わり・・・てな具合です。
ちなみに、宦官というと皆悪人のように思われますが、蔡倫のようにすぐれた人物もいました。むしろ、すぐれた人物がいたために皇帝が宦官を重用し、その中から皇帝を操ろうとする人々がでてくることもあります。
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