中国史(第11回 五代十国から宋へ)

〇五代十国と門閥貴族の消滅

 こうして唐が滅亡したわけですが、その後50年間ほど中国は分裂時代に入ります。華北・黄河流域に主に開封を首都とした王朝(後梁・後唐・後晉・後漢・後周)が5つと、その周辺に10の地方政権が成立します。そのため、この時代を五代十国時代と総称します。これらの国々のほとんどは、節度使や藩鎮が王を自称したものです。

 また、この時代、南北朝時代から続く、門閥貴族階級が消滅しました。それは軍人出身である節度使・藩鎮達が絶え間なく争い、そして新興地主層である形勢戸が台頭してきたからです。

 しかし、この形勢戸は成り上がりという意味で、決して豪族、そしてその発展形である貴族にはなりませんでした。この混乱期、その多くが一代限りで没落する場合が多かったからです。

 ところでこの時代に、中国東北地方で(916〜1125年)という国が勢力を拡大します。

 遼は漢民族の国ではありません。契丹族という民族の国です。916年に耶律阿保機が国として体裁を整え、契丹族を「遼」という国の下に再編しました。926年には、日本と交流のあった勃海(ぼっかい)という朝鮮半島北部の国を滅ぼします。そして、その息子の二代皇帝耶律徳光(太宗)は、五代の後晉が建国されるに及んで協力し、燕雲一六州という地域を獲得。中央に勢力を伸ばしました。 (上図 Microsoft エンカルタエンサイクロペディア2001より)

 そのため、後晉を倒して建国された後周は、名君柴栄世宗 位954〜959年)の下で、これを取り戻すべく遼と戦い、959年に3州を取り戻します。しかし世宗は30歳で早死にし、幼い息子の柴宗訓(恭帝 位959〜960年)が即位します。幼帝が即位すると国が乱れる原因になるのは、すべての人が解っていることでした。

 しかも、異民族の遼がそこまで迫っています。そこで、部下に推されるという形で後周の対遼作戦の司令官であった、趙匡胤が即位し(太祖 位960〜76年)、(960〜1279年)を建国しました。そして、この趙匡胤と二代皇帝となった弟の趙匡義(太宗 位976〜97年)で中国を統一し、人々の期待に見事応えました。また、後周を始め、滅ぼした国の皇帝を保護し、一族は宋の時代を通じて丁重に扱われました。

〇官僚の天国・宋


 さて、宋はこれまでの反省を元に、軍人の力を弱めることにしました。

 まず、節度使の権限を削ります。そして、地方の軍の兵数も削減します。この時、兵士の数をいきなり減らして失業者を出さないよう、あくまで新規採用をしないことで兵数削減を行います。さらに文官による軍の統括、シビリアンコントロールを採用します。一方で、皇帝直属の軍、禁軍を組織させました。

 次に統治機構を見ていきましょう。まず民政担当の中書門下省、軍政担当の枢密院、財政担当の三司を設置します。いずれの仕事も皇帝が最終的に決裁し、また軍人は長官にになれませんでした。さらに、科挙を完全に整備します。それまで、貴族が科挙を経ないで官僚になることがよくありましたが、それを廃止。もちろん、貴族が没落したことから出来た制度です。そして、973年に太祖が科挙の最終試験問題を作ったことから、皇帝直々の試験「殿試」が科挙に組み込まれます。

 こうして、宋では「文治主義」政策が採られ、科挙に合格した官僚は、士大夫と呼ばれる支配階級を形成。彼らは様々な特権の元、荘園を経営し、高利貸しや土地の売買を行います。これはこれでまた弊害ですね。しかし、それまでと違い、自分の地位を勝手に息子や一族には譲れません。科挙に合格しなければ、絶対に官僚になれませんでした。

 ですから、こんな魅力的な地位を得るため、どこの家庭でも受験戦争に勝つために必死に子供を教育しました。しかし、合格率は大変低く、その後の明の時代の場合、予備試験合格者50万人に対し、殿試合格者300人というものでした。

 ちなみに試験は、論文形式で、政策論、それから儒教の教典について、詩の3つをを書かせました。すなわち、実務・人格・教養の3つが要求されたわけです。そして、3日間にわたり、独房のような小さな個室で1人ずつ分けられ試験を受けることになります。食材・寝具などはあらかじめ持ち込むことになります。また、試験官とグルになるのを防ぐために、試験終了後、受験生の名前の欄をのり付けで隠すという厳正な試験でした。

 さて、話を元に戻しましょう。前にでてきた燕雲一六州を巡り、宋も遼と争います。しかし、二代皇帝趙匡義(太宗)は2度にわたり遼と戦いますが敗北します。そして1004年、その息子で3代皇帝の趙恒(真宗)は南下してきた遼の軍勢と戦いまた敗北を喫します。軍人を弱体化させたので勝てるわけがないのです。

 そのため、宋は遼に毎年絹20万匹、銀10万両を贈り、そのかわり宋を兄、遼を弟とし、さらに燕雲十六州は遼の支配下とした上で、国境を現状維持し、相互不可侵を約束した淵(せんえん)の盟を結ぶことにします(*「せん」の字は、正しくは「土」ではなく「さんずい」です。漢字が出なかったので代用しています)。

 宋が遼に贈る額は、燕雲十六州の全税収よりも大きいものでした。この条約で宋はプライドを、遼は実益を確保したと言えます。ただし、宋と異民族のこの条約は120年間続き、両国間の平和が保たれました。

  遼は、これにより最盛期を迎えます。そして、契丹族など遊牧狩猟民のいる北方地域では部族制を、漢民族の多い華北の支配地では州県制という中国の制度を導入し、 二重統治しました。

 しかし、宋はこれで一息をつくことが出来ませんでした。今度は中国西側に建国された大夏(西夏)という国が宋に対して侵攻してきたからです。元々は、宋に友好的で、臣従し、夏王に封じられ、争うよりも交易でもうけていました。しかし、それを潔しとしない李元昊が王位に就くと、独立し皇帝に即位します(ちなみに、李元昊の姓は、元々択抜という姓でした。それが、安史の乱の時に唐に協力したことから、唐の皇帝の姓である李をもらったのでした)。

 そして国号を大夏とし(西夏とは、宋が呼んだ名前)、都を興慶府(現在の寧夏回族自治区銀川市)におきます。これに対し宋は大夏と戦いましたがやはり敗北し、李元昊が宋に臣従し、宋が大夏に銀7万両、絹15万匹、茶4万へんを毎年贈るという和平交渉が成立しました。遼と西夏への贈り物は、いくら軍事予算を削減できるとはいえ、それを上回るもので、宋の財政を圧迫します。
 
 さて、このような事態になったのは、極度の文治主義政策でした。この文治主義政策は官僚の数を莫大に増加させ、さらにその給料も現在に至るまで最も手厚いと呼ばれるほどのものでした。そして、異民族と金で和を乞う一方で、再び軍隊の数は増加します。11世紀前半には、早くも宋の財政は危機的状況に陥ります。こんな時におきまりの、塩・茶・酒の専売を強化しましたが、いたずらに人々の暮らしを圧迫するだけで効果が上がりませんでした。



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