第15回 元の中国支配
○モンゴル帝国の発展
さて、チンギス=ハンが死ぬと、クリルタイが開かれ三男のオゴタイ=ハン(1186〜1241年 位1229〜1241年)が後を継ぎます。チンギス・ハンの長男にはジュチが、次男にはチャガタイがいましたが、2人は仲が悪く、そのため性格が温厚なオゴタイが跡を継ぐことに決まっていました(注:ジュチはこの頃既に死去)。そして、耶律楚材も引き続き信任されています。楚材は、チンギス=ハンから直々にオゴタイに「天が我が家に使わした宝だ」さえ言われた人物です。楚材は、オゴタイが金を滅ぼすにあたり、多数の文化人を保護し、そして1度だけでしたが科挙も実施させています。なんか、できすぎた話ですよね。この楚材の功績を否定する学者もいます。彼は、自分で偉そうに功績を捏造しただけだ、と。
なぜならば楚材の名前は、その後モンゴル帝国の分国であるイル=ハン国の宰相ラシード=ウッディーンが書いた、モンゴルの歴史「集史」をはじめ、意外なほど歴史書に登場しないからです。また、南宋の人は金の遺臣(すなわち楚材やその他の人々)が純朴なモンゴルを狂わせたと書き残しています。さて、どちらが真実でしょうか。ただ、ほらを吹くような人間だったら、さっさとクビになっているような気がしますが。私は、むしろ楚材が功績を公表しなかったから、歴史書に余り登場しないと考えています。
さて、1234年、オゴタイ=ハンによって金が滅亡します。そして、外モンゴルのカラコルムを国都にし、都城を築きます。さらに、翌年には甥のバトゥ(ジュチの子)にヨーロッパ方面に侵攻を命じます。その数50万人。ロシアのキエフにあったキエフ公国ではモンゴルに対し抗戦をしますが、敗北。そして、例により1人残らず虐殺されます。
これが、ヨーロッパに伝わり震え上がらせると同時に、1241年には引き続きピアスト朝ポーランド王国(9世紀頃〜1386年)にバトゥは侵攻して来ます。これに対しワールシュタットで、シュレジレン公ハインリヒ2世は、3万のドイツ騎士団軍とポーランド王国連合軍を率い、重武装の騎馬隊で迎え撃ちますが、モンゴル騎馬隊のすばやい集団戦法の前に敗北。これが、ワールシュタットの戦いです。
そしてバトゥはアールバード朝ハンガリー王国(1000〜1301年)の首都ペストを攻略。イタリア侵攻を伺います。ヨーロッパがいよいよモンゴルに征服される!と人々が危機感を覚えた矢先、モンゴル軍は突如撤退しました。オゴタイ=ハンが死去したからです。そして、次のハンを選ぶクリルタイのためにバトゥは帰ったのでした。その後モンゴル軍はヨーロッパに大規模な侵攻はしていません。その理由は謎です。
さて、3代目のハンにはオゴタイの息子、グユクが即位しますが2年ほどで死去します(位1246〜48年)。ここで後継者を巡り騒動が起きます。本来、モンゴルでは末子相続制でした。そのため、チンギス=ハンの三男であるオゴタイの家系がハンの位に就くのはおかしい、と考えるグループがありました。それは、チンギス=ハンの末子トゥルイの子孫のグループです。
後継者争いの結果、オゴタイ=ハンの子孫の多くが処刑され、4代目にはトゥルイの息子、モンケが即位します(位1251〜1259年)。そして弟フビライ(クビライ)に南宋攻略を、さらにその弟フラグに西征を命じます。フラグは、1258年にバグダードを攻略し、イラクのアッパース朝(750〜1258年)を滅ぼします。さらにエジプト侵攻も開始し、マムルーク朝と戦います。ところがモンケ・ハンが死去したため、突然引き上げることになりました。
○元と4ハン国の成立
この時、フビライは「漢地大総督」として中国華北を支配していたのですが、兄の死を聞くと自分でクリルタイを開いてハンの座に就きます(1260年)。これに反対したのがトゥルイの末子、すなわちフビライの末弟であるアリク・ブケです。アリク・ブケもハンを名乗りますが、軍事力に勝るフビライがこれをうち破りました(アリク・ブケのその後は諸説あるが、殺されたとも言われている)。
そして、フビライは、それまでの遊牧生活から定住生活へと方針を転換することにし、首都もそれまでのカラコルムから、64年には内モンゴルの上都に、67年には中国北部に大都を建設し、移転しました(正確には、上都を夏の都に、大都を冬の都にした)。
大都は、古代中国でいえば、燕の都があった辺りで、この地は後に北京として発展します。そして71年には、国名も「大元」と中国風に改めます。「大元(一般には元と略される)」は、古典である『易経』の「大哉乾元」よりとられた言葉です。
しかし、これに反対したのがオゴタイ家のハイドゥです。トゥルイ家には一族を殺された恨みもあり、また中国に重心をおくことは、それまでのモンゴルの故地を捨てるに等しいことです。彼は、1269年にチャガタイ家、ジュチ家の支持でハンの座に就き、フビライに宣戦布告します。これがハイドゥの乱で、フビライが死去した後の1310年まで続きました。
そして、これによりモンゴル帝国は解体し、ジュチ家によるキプチャク=ハン国(ロシア地域 キプチャクはこの地方にいる民族名)、チャガタイ家によるチャガタイ=ハン国、フラグのトゥルイ家によるイル=ハン国(イラン地域)、オゴタイ家のオゴタイ=ハン国(モンゴル西部)、そしてフビライの「元」に完全に分裂しました。
このうち、オゴタイ=ハン国はハイドゥが1301年に死去すると、あっさりとチャガタイ=ハン国と元に併合されてしまいます。ゆえに、これを国とせずに、ただオゴタイ家の土地とする資料もあります。その他のハン国については、それぞれの地域の歴史で見ていきましょう。ここでは、元についてみていきます。
○フビライの野望
フビライは国名を元に改名した1271年に、南宋攻略を本格的にします。そして76年に首都臨安を攻略し、79年に完全に南宋を滅ぼしました。そして、引き続きベトナム方面へ侵攻します。フビライが、南方を目指したのは、中国と東南アジア、そして日本を支配し、一大海上国家を建設しようと考えたからだと言われています。そのため、ミャンマーのパガン朝(1044〜1287年)、雲南にあったタイ人の国、大理国(937〜1254年)は滅ぼされました。またそれ以前から朝鮮半島の高麗は服属しています。ただし、高麗もあっさり降伏したわけではなく長く抵抗を続けるグループもいました。その抵抗のことを三別省の乱と言います。
ですが、ヴェトナムでは陳朝大越国(チャン朝ダイヴェト国 1225〜1400年)は、首都ハノイを明け渡し、元が占領に来たところを包囲し、補給路を断つという戦法などで3度にわたり元の侵攻を撃退します。また、日本では北条時宗を中心とする鎌倉幕府体制下で、暴風雨と元軍内部の連携の悪さから、元の2度の侵攻を何とか切り抜けました。元は必ずしも思惑道理に領土拡大が出来たわけではありません。
それでも、仲の良かったイル=ハン国と連携し、海路による大貿易を行うことに成功しています。これは、イスラム社会と中国を直結させた点で大きな意義があります。もちろん、海上だけではありません。陸の整備も行います。大都から上都に幹線道路を造り、そしてカラコルムからシルクロードと整備します。また、駅伝制(ジャムチ)といって、一定の距離ごとに駅をおいて馬や食糧を補給させるという制度を作りました。これにより、主にイスラム(ムスリム)商人が多数中国に訪れるようになり、商業が発展します。また、当時十字軍でイスラム諸国と戦っていたヨーロッパからは、教皇やフランス王から使者が来ます。
○これが元の統治システムだ!
さて、あまり面白い話じゃないかもしれませんが、どのように元が、中国を支配したのか見ていこうじゃありませんか。まずフビライは身分制度を設けます。
・1番上をモンゴル人
・2番目に色目人(イスラムを含め、西域諸国の人々)
・3番目に漢人(金の統治下にあった人々)
・4番目に南人(南宋の統治下にあった漢民族)
とします。特に南人は徹底的に差別され、支配機構から排除されます。
これが、大きな功績があったにもかかわらず中国で元が嫌われる理由です。
そして、モンゴル人はすべての行政機関のいいポストを、色目人は経済系のポストを占めます。この色目人は大抵、悪どい人物が多く、無理な課税などにより人々の反発を買います。また、官制は、中国人には今まで道理の官制を引き継がせ、モンゴルはモンゴル式にと2重統治を行います。また、モンゴルの独自性を保つため、パスパ文字を作らせます。それまでモンゴルには文字が無かったんですね
フビライの死後、ハンの位を巡り相続争いが起き、一方でモンゴル人の宮廷貴族達は贅沢三昧で暮らし、しかもフビライが国教に定めたチベット仏教(ラマ教)の信仰に莫大な金を投資し、その金を補うために紙幣である交鈔を乱発(インフレ化)。さらに専売制度を強化します。強化すると言うことは、特定の商品を民間では自由に売買させず、国家が好き勝手な値段で独占的に売ると言うことです。
このようなことで国が保てるはずがありません。
当然猛反発が起き、「やれやれ、しょうがねえなあ」と、官僚任用試験である科挙の実施がようやく行われるなど、懐柔策が施され一応の成果は上げたものの、漢民族の不満はついに爆発します。
○さらば、元
1351年、貧しい農民を主体に、仏教の一派である白蓮教徒による紅巾の乱、そして密売商人達による反乱が起きます。紅巾の乱は頭に赤い布を巻いていたことから付いた名前です。
その中で、紅巾の乱に参加していた朱元璋は、江南地域に勢力を張ることに成功し、北上します。これに対し、元は名将トクタに100万の兵を与え、迎撃に向かわせますが、政府内の政権争いに関連して、トクタは解任されてしまいます。これでは反乱を防ぎようもなく、1368年、元の順帝トゴン=テムルは大都を捨て、モンゴル高原に撤退しました。これ以後の元を、北元と区別します。北元はその後タタール部とオイラート部と、再び部族が分かれることになりました。
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