第18回 明時代の東シナ海

○今回の年表

1402年 永楽帝が即位。
1405年 鄭和の南海大遠征が始まる。 ティムール、中国攻略を目指す途中で死去。
1413年 (トルコ) メフメト1世、オスマン帝国を再興。
1415年 (フランス) ジャンヌ・ダルク、オレルアンを解放。
1421年 永楽帝、北京に遷都。 24年に永楽帝死去。
1467年 (日本) 応仁の乱が勃発。
1449年 土木の変。モンゴルのオイラート部が侵入し、迎撃にでた正統帝を捕虜に。
1498年 (ポルトガル) ヴァスコ・ダ・ガマ、インドのカリカットに到達。
1517年 (神聖ローマ帝国) ルターが95条の論題をローマ教会に提出。
1517年 ポルトガル人が広州に来航する。
1522年 (ポルトガル) マゼラン一行、世界一周に成功。ただしマゼランは途中で航海途中で殺害。
1540年 王直、平戸を根拠地にする。
1550年 タタール部(北元?)のアルタン・ハン、北京を包囲。

○鄭和の大航海

 永楽帝が業績を残したのは対外遠征ではなく、世界初の大航海を実施させたことにあります。モンゴル帝国・元が中国を支配していた関係で、中国には多くのムスリム、イスラム教徒がいたのですが、その中で宦官になっていた者もいました。永楽帝は、その宦官の中でイスラム教徒の鄭和(1371頃〜1434年頃)に船団を率いさせ、東南アジア、インド、そして北アフリカにまで航海させます。もちろん、朝貢交易をさせるためですし、イスラム教徒をえらんだのは、交渉をスムーズに進ませるためです。

 この遠征は1405年から33年まで7回に分けて行われ、大成功を納めました。第4回目の航海の時、ついにアラビア海を越えます。彼は一部の船をアフリカ東海岸にまで派遣します。キリンやライオンは、この時中国にやってきています。キリンは、ソマリア語で、奇しくも中国の伝説上の動物「麒麟」と発音が同じであり、どちらも見たこともない不思議な動物。人々の喜びは大きかったと言われています。
 
 しかし、鄭和の大航海は永楽帝が死にますと、1431〜1433年、ホルムズ(今のパキスタンの都市)までの航海を最後に、実施されなくなりました(この時、鄭和は61歳。また、一部船団はアラビア半島のメッカまで行く)。

 どうも、鄭和の大航海はお金がかかったらしく、反対論も強かったようです。鄭和の最後の航海から約40年後に、宦官の1人が鄭和を再評価しようと考え、記録を見せてくれと、職方司郎中の劉大夏という書庫の官吏の役人に頼みに行きます。しかし、劉大夏は「またあの愚行を繰り返すのか、宦官め!」と思ったのでしょう。記録を焼き捨ててしまいました。

 そのため、我々が鄭和の大航海を調べるには、一部に残った資料と各訪問地に残された碑文などを手がかりにしています。ま、こうしたわけで、ほどなくヨーロッパは大航海時代に突入するのですが、中国は鄭和の大航海は単発のデモンストレーションに終わり、それ以上の意味を持ち得ませんでした。

○倭寇〜多くが中国人なのよ〜

 また、海禁政策は政策は引き続き継続され、一般の人々による海外渡航・貿易は禁止されていました。そのため密売人や海賊が多く出るようになります。

 特に、日本を根拠地に活動した海賊は「倭寇」とよばれ、明の頭痛の種となります。なお、この倭寇の活動は大きく2期に分けられ、前期倭寇、後期倭寇と呼ばれます。よく中国・韓国から、倭寇は前期も後期も日本人だと誤解されることがあるので注意しましょう。基本的には、日本人も中国人も自由に手を組んで活動していたみたいですね。なお、最盛期では日本人3割、中国人7割だそうです。

 倭寇で一番有名なのは、後期倭寇時代の王直という人物でしょう。
 換えは元々塩商人でしたが、密貿易の方が儲かると考え、徐海葉宗満と共に海に乗り出します。1540年には日本に進出。五島列島の平戸(長崎県北西部の島)を根拠地に。現地の藩主(殿さま)の歓迎も受けて、日中の密貿易の仲介を行い、「浄海王」と称します。と、ここまではまだ良かったのですが、前述のように明は海禁政策をとっていますので、この動きに取締りのメスを入れ始めます。

 なら海賊になってやろうじゃないか、と王直は倭寇に転身。日本の海賊とも手を組み、暴れまくります。もちろん、明の政府も鎮圧に乗り出す一方、日本の室町幕府にも取締りを求めますが、「幕府とは関係ない」として取り締まらない。明の官吏の中には、王直に従う者もいたぐらいです。

 そこに明政府のホープとして登場したのが、胡宗憲という人物です。彼は、正面からぶつかっても勝ち目はないと考え、王直の母と妻を使います。彼女を逮捕監禁した胡宗憲は、「たまには戻ってきておくれ」と手紙を書かせ、また平戸にいる王直に使者も送ります。これに対し王直は自分の行う「貿易」を認めさせた上で、帰国を了承。明政府に帰順することにしたのです。

 が、この見通しは甘く、約束は反故にされて王直は殺された、ということです。
 海賊と言いますと、略奪者のイメージがつきまといますが、必ずしも全てがそういうわけではなく、最近の研究では、王直は日本と明を股にかけ、一大貿易を目指した海の男としての評価も高まっています。

○明にまで出かけて喧嘩した大名

 ところで、 この時代は明の公認をうけたところとは貿易が出来ました。
 日本の場合、室町幕府が明と勘合貿易をしたことは有名ですが、応仁の乱の後、室町幕府の力が弱まると幕府の実力者・細川家大内家が、幕府に迫って、つまり「貿易行くから、勘合よこせ!」って形で、貿易を行うようになります。

 ところが、この2つの大名家は仲が悪く、主導権争いが絶えません。実は、商人の利害関係も加わっておりまして、細川家は堺の商人が、大内家は周防長門の大名なので、博多・門司の商人が支援しています。

 1523年、中国南部の寧波(ニンポー)に大内家の船が着くのですが、後を越されまいと細川家の船もやってきます。当然、どっちが主導権を握るか対立するのですが、明の役人は細川家の副使であった明人・宋素卿から賄賂を受け取ったため、細川家を優遇します。

 これに怒ったのが大内側。細川家の船を襲撃すると正使を殺害し、明の軍隊と交戦して引き上げるという、前代未聞のことをしでかしました。これを寧波の乱と言います。この後、大内氏が貿易を独占しますが、貿易に関して厳しい制限を受けることになりました。なお、1463年には大内家の支援で、雪舟という画家が明へ渡り、絵をお勉強。帰国すると、山口に居を構え、水墨画の大家として歴史に名を残します。

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