第21回 女真族の後金・清と李自成の乱
○ホンタイジ、無念の死
その後を継いだのが息子のホンタイジ(太宗 位1626〜43年)です。ホンタイジはモンゴル民族の一部族・地域であるチャハル部を平定し、さらに朝鮮半島の李氏朝鮮を服属させます。
これを機に、国号を「清」と改名。改名したのは、「金」という国名が中国本土では評判が悪く、満州族には懐古趣味として認識されていたため、新国家建設をする上では、良くない名前だったのです。同時に、「女真」という呼称もやめ、「満州」に統一させました。
そう、いよいよ明を滅ぼそうと万里の長城を突破することにします。 その前に、先ほど敗北した寧遼城を落とさないといけません。
袁崇煥は、この地域で密貿易を行い、一方でたまにゲリラ的に清と戦う毛文竜という人物を処刑したのですが、この部下達が怒りました。彼の高級幹部であった孔有徳、尚可喜、耿仲明達は、何とポルトガル製の、あの大砲を手みやげにホンタイジに降りました。しかも、大砲を製造することが出来る鍛冶職人つきです。
一方、時の皇帝は崇禎帝。最後の皇帝になるのですが、この人物、無能とはいえないものの、人を疑いやすい性格でした。そこでホンタイジは、袁崇煥が満州と通じていると噂を流し、さらに証拠も捏造。政府内には、毛文竜から賄賂をもらっていた人も多く、賄賂先が無くなったことに不満を持っている官僚・宦官もいました。みんなで弾劾を始めます。こうして袁崇煥は処刑されました。で、これでホンタイジに刃向かうところ敵なしか、いやいや、まだ手強い軍団がいました。
そう、明の名将軍・呉三桂が守る山海関と呼ばれる要塞が突破できないのです。こうしているうちに、ホンタイジは急死し、わずか6歳の順治帝が即位します。と、ここに異変が起こります。なんと、明が滅亡したのです。何者の手によって明は滅びたのでしょうか。
○ただの乱ではない李自成の乱
それは、李自成を中心とする反乱でした。明は、後金・清と戦うためにお金が必要なので、駅站制度を廃止します。駅站というのは、道に設けられた駅を使ったシステムで、物資や郵便を運び、また宿泊施設にもなる拠点でした。なお、この制度を元にして鉄道の「ステーション」の訳語に「駅」という文字が当てられることになります。さて、当然の事ながら駅站制度によって駅で働く人たちというのが沢山います。明がこのシステムを廃止したお陰で、当然失業することになりました。そんなこと、黙っていられません。反乱です。既に、多くの農民反乱が発生し、官軍が鎮圧、そしてまた農民反乱が発生し、官軍が鎮圧・・・というような状況が各地で起こっていたのですが、そのとどめともいえる反乱の発生です。
とはいっても、明の軍勢は意外と強く、様々な反乱グループのトップが明に捕まって殺されたりしながら、結局最終的に反乱軍のリーダーとなったのが、李自成という人物です。もちろん、李自成のグループも勝ったり負けたり・・といった状況だったのですが、規律がとれていたので、多くの知識人も参加してきます。
さらに、李自成は、中国の歴史で数多く発生した反乱の中で、初めてマニュフェスト・・・ならぬ、政権を取った場合の構想も掲げます。すなわち、「均田、免糧」「徭役の免除」「官が暴力で民を搾取しない」「富豪の金銭を没収し、貧民に分け与える」「軍の綱紀粛正、民を殺さないなど」「賢者を尊び、士人を礼遇する」といった感じです。
そして何より、李自成自身が現場タイプの人間で、兵達と一緒に食事を取り、贅沢をしなかったため人気が高く、こうしたことによって反乱軍はふくれあがり、ついに1641年には洛陽を陥落するに至ります。そして1644年、李自成は建国を宣言。国号を「順」とします。そして、そのまま北京を包囲し、これに入城。
明の最後の皇帝・崇禎帝は、潔く、ただし「全て周りの者が悪い」と罵ったあと、近くの景山で首をつって死にました。皇后も自害し、娘達は李自成の軍に好き放題にされてはいけない、というわけで崇禎帝の手で殺されています。・・・・もっとも、そのうちの1人は生き残り、その後、清の時代になってから彼女の希望で普通に結婚し生涯を終えたようです。
さて、ここでお話を山海関に戻します。明が滅びた、と報告を受けた呉三桂は、当然、「順」につくか「清」につくか選択をしなければなりません。取り敢えず、李自成から、父親の呉襄を経由した強い要請があったので「順」に帰属し、また命令で山海関から西へ転勤することになり、出発することにしました。
ところが。
呉三桂が北京(山海関と書く本もある)に残した愛妾・陳円円が、李自成の部下・劉宗敏に奪われたことが判明。もちろん、呉三桂は激怒します。そして、ヌルハチの第十四子で、清の事実上のトップであるドルゴンに使者を送り、行動を共にすることに決定。山海関の門を開き、清と合流し、明軍を撃破し、北京を包囲。李自成は、これまで勝っていて油断していたのと、政府機関の組織・役職・名称を定めるのに忙しく、対応しきれなかったのです。
こうして、李自成は40日で北京を去ることになり、その後負け続けて自殺しました。なお、この少し前、李自成は呉襄を始め呉三桂の一族を殺しています。「異民族についた裏切り者!」として、さぞかし李自成の呉三桂への恨みは深かったでしょう。陳円円についてはよく解っていませんが、呉三桂と一緒になったという話も・・・。後に呉三桂は反乱をしますが、その傍らにもいたことでしょうか。
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