第24回 名君の時代2〜雍正帝〜
○今回の年表
1722年 | 雍正帝、即位。 |
1723年 | (日本)徳川吉宗、足高の制を定める。 |
1728年 | ロシア帝国とキャフタ条約を締結。 |
1728年 | デンマーク人のベーリングが、ベーリング海峡(アラスカとシベリアの間)を発見。 |
1729年 | 軍需房を設置(32年に軍機処と改称し定着) |
1733年 | ポーランド継承戦争。 |
1735年 | 雍正帝没する。 |
○僅か13年の治世なれど
康煕帝、そして今回の主人公・雍正帝の次の乾隆帝が双方共に60年という長い治世を持つのに対して、1722年に即位した雍正帝は45歳で即位し、58歳で死ぬまで僅か13年の治世です。しかし雍正帝の13年間は、乾隆帝へのバトンタッチを無事に果たすにふさわしく、なにしろ彼は仕事熱心でした。
一例を挙げますと、全国の役人から膨大かつ様々な書類を直接自分に送らせ、1つ1つ朱筆(赤筆)で皇帝直々の意見を書き、なんと返信をする。役人はそして、また雍正帝に返事・報告を出す。そしてそれに対し雍正帝は意見・返事を書いて送るという、まあ、筆まめな皇帝だったのです。
役人は何と皇帝から、直接叱咤激励をうけるわけで非常にやる気が出ますし、また数多く皇帝のスパイも派遣され、見張られて報告が行き、場合によればボーナスや給料アップ、逆に処罰もあるので、襟を正して仕事をしないといけません。そんなわけで、まさに末端にまで目を光らせて仕事をした雍正帝。死因は過労じゃないかと言われているぐらいです。
そして彼は、過剰とも言える国内体制の引き締めにかかります。
体制引き締めで重要なのは、反「清」運動を起こさないように、言論を弾圧することでした。「文字の獄」といわれるもので、清王朝を批判している、と判断された人は極刑、つまり死罪にも処します。例えば、官僚任用試験である科挙、これの初期段階の試験である郷試において、査嗣庭(さしてい)という試験官の人が、「毛詩(詩経)」という有名な書物の一節である「維民所止」という部分を出題しました。
これが、反清思想であるとして査嗣庭さんは投獄され、そのまま死亡。死体は晒し者となり、さらに彼の息子は死刑、一族は投獄という非常に厳しい処分を受けています。いったい、これのどこが反清思想なんだ、ってところなのですが、どうも「維」「止」の2文字が、雍正帝の「雍」と「正」に対応し、さらにこの2文字が離れている=雍正帝の首をはねているんだとか(おや、なんだか徳川家康と豊臣家と方広寺の関係に似ていますね。国家安康 君臣豊楽)。
とまあ、そのぐらい厳しい言論統制・弾圧が行われたわけです。さぞかし、文化人は生きた心地がしなかったことでしょうし、無実の罪で多くの人が処刑されたことでしょう。文化的には雍正帝の時代は暗いものだったといえると思います。もちろん、文化人というのは結構婉曲的な表現を使って皮肉を書くことも多いので、雍正帝がビクビクしたことも無理はないかもしれません。
なお、雍正帝は「中華は多くの民族で構成されており、天命を下されて皇帝になるのは何民族でもいい。聖王舜(古代中国の王)は東夷の人であり、周の文王は西夷の人であり、満州族の皇帝も聖人に匹敵するのだから、天下を統一し中華に君臨できる」ということを信条としていました。ただ言論弾圧&処刑するだけでなく、たとえば異民族は出てけ!と声高に叫んでいた曾静という人物と討論して、この人物を屈服させています(しかし、彼は次の乾隆帝には処刑されてしまいました)。
○軍機処の設置
それから内政面では、重要な政務を行う軍機処という役職を設置しています。清朝は初め、満州以来の機関と、順治帝のときから明の内閣制度にならって内閣を設置していたのですが、1729年、青海地方のジュンガル部征討に際し、用兵の迅速と機密の保持を目的として、軍需房をもうけます。そして軍機房、軍需処という名称変更を経て、1732年には軍機処と改称。雍正帝死後の1737年にはその責任者を軍機大臣としました。
って、これでは何のための機関かよく解りませんね。
詳しく説明しますとね、当時は皇帝を含め、支配者である満州人の政府幹部は漢語が完全に出来なかったので、翻訳が必要だったんですね。ところが、今までの内閣に任せていたら、仕事はゆっくりだし、みんなで翻訳している間に情報も漏れる。特に戦争する時には情報漏れは困るし、雍正帝としては直ぐに決済したい。
そこで、各部門から自分(皇帝)の目の前に必要な人材を出向させ、基本的に満州語の出来る漢民族も大臣や翻訳者として参加させて、各地から来る報告はその場で翻訳、すぐに決済。こうすることで、皇帝のリーダーシップも発揮しやすくなり、権力拡大、こういうメリットがありました。以後、軍事だけでなく重要な政務一般に権限は拡大し、以前からあった内閣は事務処理一般を担当することになり、このシステムは1911年まで存続しました。
○その他
他にも雍正帝は、特権が必要なのは皇帝だけで十分。あとはみな平等、というわけで賤民の解放を行っています。官僚に厳しく目を光らせたのも、彼らを特権階級として温々と育てさせないためです。皇帝の権力を上回ってもらっては困ります。そういや、それまでの時代、官僚は、とにかく私財をため、私腹を肥やし特権階級を形成していましたよね。また、対外的には外モンゴルのジュンガル部と戦闘をしたこと、ロシア帝国とシベリアの国境を確定したキャフタ条約を結んだことがあげられます。それから、当時はキリスト教も中国に伝わっていました。康煕帝の時には儒教思想などを否定するフランチェスコ修道会&ドミニコ修道会系のキリスト教の布教を禁止し、一方、儒教などを否定をしない、イエズス会のみに布教を認めていたのですが、雍正帝はキリスト教を全面的に禁止にしています。
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