第27回 アヘン戦争
○開戦までの道(前回が前夜だったのにね)
アヘンさえ売らなければ、貿易は出来る。しかしながら、アヘンだからこそ利益が得られるわけで、アヘンは売りませんという誓約書を提出「しなかった」イギリスの商人達は、本国に清を懲らしめるように盛んに働きかけました。外務大臣のパーマストンもイギリスの国力を示してやれ!という強硬主義者でした。そこで1840年2月、メルボーン自由党内閣は開戦を閣議決定。議会に戦費の支出の承認を求めます。
その結果、賛成271票、反対262票。
という、僅差で賛成側が上回りました。この時にのやりとりは有名です。
賛成側のトマス・バビングトン・マコーリーは
「エリオット氏が包囲された商館に立てたイギリス国旗が如何に人々を勇気づけたか、そしてイギリスには敗北という屈辱はなく、退歩することを知らない」、つまりイギリスのやることに間違いはないと訴えます。
一方、反対側のグラドストンは
「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私は未だかつて知らないし読んだことさえない。(エリオットがたてた)旗は、悪名高い禁輸品を密輸するためにひるがえったのである」としました。しかし、戦費の支出案が議会の承認を受けて通ってしまった以上、その方針に従う他はありません。
んで、イギリス本国からせっせと清にまで向かうわけにはいかないので、おもに植民地のインドで艦隊が編成されました。乗り込む人達の大半はインド人です。そして、司令官にはチャールズ・エリオットの従兄、ジョージ・エリオット海軍少将が任命されました。ちなみにこの時、チャールズは39歳、ジョージは56歳。そして、イギリス側も「あらまぁ」と後で思ったでしょうが、実は仲が悪かったりします。
さあ、麻薬の輸出を認めろという前代未聞の戦争の開始です。
○開戦初期
林則徐は、広州で向かい打つべく準備をしていたのですが、ジョージ・エリオット少将は杭州沿海部にある舟山列島という場所をあっさりと占領し、さらに天津に向かいました。天津は北京と目と鼻の先。ここにきて、ついに清の政府は震え上がりました。見たこともない多くの軍艦が目の前に来ているのです。
林則徐は、(イギリスに頼まれてもいないのに)クビになり、左遷されました。
そして、埼善(チシヤン)という直隷総督(河北省と周辺の長官)が派遣され、なんとか広東の方で交渉をするようにしました。彼はアヘン容認派で、林則徐と対立していた人です。滅多に怒ることのない林則徐も、相当彼を恨んだようです。
この変わりぶりに呆れたのか、ブレマー准将は「林則徐は立派な才能と勇気を持った人物であった。ただ外国の事情を知らなかった」と感想を述べています。ただし、林則徐はイギリス本国の議会の動きもつかんでいましたし、左遷先のイリ地方ではロシア帝国の研究をやって、清の危機を警鐘していますので、むしろ海外情勢には詳しかったことを付け加えておきます。
さて、埼善は後任の欽差大臣に任命されると、林則徐がイギリスと戦うために編成した軍勢を大幅に縮小し、ご機嫌取りを始めます。これに対し、イギリス側の要望は以下の通りです。
・イギリス人が受けた侮辱に対する賠償と将来の保証
・没収されたアヘンの賠償と遠征代の支払い
・イギリス人のアヘン密輸を取り締まらないこと
・輸出入税を一定にすること
・イギリス人の請願書は、直接、北京の皇帝に提出できるようにすること
・福建、江蘇など6港以上の開港
・イギリス人の犯罪はイギリス人が裁けるようにすること
・香港の割譲
などなど・・・まだこれ以上にも山ほどあります。
ところが、ここで問題が起こりました。ジョージ・エリオットと副使として同行していたチャールズ・エリオットがケンカを始めたのです。意外にもチャールズの方が「あまり高圧的にやらない方がよい」として、超強硬路線のジョージと対立。結局、ジョージは「俺はもう知らん!」と病気を理由に帰国してしまいました。
で、ジョージの後任にヘンリー・ボッティンジャーがやってくると正式に交渉開始です。
が、香港の割譲なんてとんでもない! 道光帝を始め政府は大激怒! 北京の近くに艦隊もいないので、また強硬路線を言い始めたのですね。埼善は、交渉の打ち切りを余儀なくされました。
そこで戦争です。
とはいえ、清軍が弱すぎたこともあり、清側が292名の戦死者だったのに対し、イギリスはゼロという結果に。その上で、チャールズ・エリオット大佐は、最初に占領していた舟山を帰すことで、清の面子を立てることにします(よくお勉強したものです)。その結果、とりあえず賠償の方は認める・・・とまで話が進みました。
しかし、それ以上は進まなかったのでまた戦闘。
さらにチャールズ・エリオットは香港の領有を宣言します。ここに埼善は罷免され、危うく死刑になりかけましたが、そこは何とか免れました。そして埼善の後任は、おまじないでイギリス軍を倒そうとする始末で、結局またまたイギリス軍の攻撃に遭い、今度は上陸されて、住民はこれでもかと言うぐらいの略奪の被害を受けました。清軍は役立たずで逃げます。
そこで今度は住民側が「平英団 (英=イギリス)」を組織して決起し、2万人、さらにそれ以上がイギリス軍を包囲。
ところが、その前に清側はチャールズ・エリオットと和約を結んだため、平英団に対して「解散しないとお前たちに賠償金を支払わせるぞ」と脅して解散させました。一方、チャールズ・エリオット大佐も「勝手に交渉を進めおって!」とパーマストン外相のお怒りにあいクビになりました。
○南京条約
上海のバンド(外灘)には今も租界時代の洋風建築が数多く残る。(撮影:孟保世)
パーマストン外相は、超強硬路線でしたから、チャールズ・エリオットがちまちまと駆け引きをやっているのが気にくわなかったのです。彼は、さっさと北京を恐怖に陥れろと命令し、イギリス軍は清の各地を占領していきました。そして、殺人に略奪にとやりたい放題。ある意味、昔のモンゴル帝国のやり方と似ていますね。ここに来てついに道光帝も諦め、しぶしぶ条約を結ぶとしました。
こうして、先ほどのイギリスの要求がほぼ受け入れられる形で南京条約が結ばれます。
この中で、たとえば上海が開港場となりました。開港場は外国人の居住などが自由ということです。ここに近代上海が幕開けしたと言っていいでしょう。また、翌年の追加条約で清の関税自主権の喪失、治外法権などが認めさせられ、またフランスやアメリカとも同様の条約を結ぶことになりました。それから、香港は割譲です。
また、それから時代は先になりますが、1860年には香港対岸の九龍も割譲となり、さらに1898年には九龍半島全域が99年がイギリスの租借となります。租借というのは、要は借りると言うことです。
ご丁寧に、それから99年後に返還されたのは、まだ記憶に新しいでしょう。あと、ここではあまり触れていませんが、マカオは既に17世紀ぐらいからポルトガルが、法的性格・帰属が曖昧な形で支配してます。こちらもようやく返還されましたね。
それにしても、ここに今までの中国の伝統的な体制が一気に崩壊しました。
周辺国が中国の皇帝の徳を慕ってやってくる、そこで皇帝が周辺国の君主を王として正式に任命して、便宜を図ってやる・・・という册封体制が終わったのです。しかしながら、清の政府では正当化の理論をせっせと考え、それほど一大事とは認識しなかったみたいですけどね。むしろ、いわゆる鎖国をしていた江戸時代の日本が、大国である清が戦争で負けたという衝撃を受け、大混乱、激動の幕末の時代に突入していくことになります。
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