第29回 第2次アヘン戦争のアロー戦争

○まだまだアヘンは尾を引く

 さて、ちょっとお気づきの人もいると思いますが、アヘン貿易は合法化された、とは今まで書いておりません。
 そう、流石にアヘン貿易の合法化まではイギリスは出来なかったのです。
 そのため、あくまで密輸の黙認という形で貿易を続けていました。

 で、太平天国が内紛を起こしていた頃。
 アロー号というアヘン密輸船(船長はアイルランド系イギリス人のトマス・ケネディ 乗組員は中国人) がイギリス国旗を掲げて広州で停泊していたところ、臨検を受けました。なんでも、海賊の容疑だとか。これに怒り狂ったのが、のちに日本でも大暴れ(?)することになる、駐清イギリス領事のパークスです。パークスは、これはイギリスへの侮辱であるとして、本国へ連絡。同じ頃、フランス人宣教師が中国人を煽動した容疑で処刑されていたため、フランスでも清に報復を!という声が高まっていました。

 ・・・何のことはない、戦争の良い口実を作ったわけですね。
 イギリス首相になっていたパーマストンは、議会に戦費の支出を求め、貴族院である上院は承認。ところが、下院は否決したので、下院を解散し選挙をさせた上で、承認させるという荒技をやってのけ、フランスと共に出兵しました。もちろん、最初に標的となったのは広州で、またまた略奪の嵐。さらに、清の中枢に恐怖を与えるべく、北上を開始し、この中にはアメリカとロシアもちゃっかり参加しています。

 時の皇帝、威豊帝は外人嫌いでした。
 しかしながら、イギリス・フランスなどについに屈し、使臣を北京に駐在させる、中国内での通商と旅行を自由にする、キリスト教の布教の保護、税率法の改正、条約は英語を正文とするなどの要求を認めざるを得ませんでした。なお、この税率法の中に「洋薬」と言う項目が追加されています。そう、アヘンのことです。この条約を天津条約と言いますが、ここにアヘン貿易が事実上、合法化されたのです。

○さらにまだもう一戦

 ところがこれで終わりではありません。
 清の政府も、もう少し北京の近くの守りを固めた方がよいと各地に砲台や障害物を設置したところ、翌年に条約を批准に来たイギリスのブルースは「これは一戦をするつもりだな」と攻撃を開始しました。・・・なんと、条約批准のために艦隊を用意していたのです。すなわち、おそらくまだまだ清の政府を脅かしてやろうと思っていたのでしょう。

 ところが、なんとイギリス軍が負けてしまいました。
 当然、清は勢いづきます。「おのれ、この野郎!」、ということでパーマストン首相は、清の皇帝を追い出せとまで演説しています。そして今度はイギリス・フランスの連合軍が総力をかけて北京に侵攻してきました。こうなると勝てません。清の軍勢は壊滅しました。そして、北京に侵攻し、威豊帝は逃げ出し、各地が破壊されました。特に有名なのが、雍正帝が造らせたヴェルサイユ宮殿を模したという円明園の破壊です。

 この後の1860年、北京条約が結ばれ、天津条約にはなかった天津の開港が加えられました。
 また、イギリスは九龍を得ています。そして、太平天国が滅ぶのは、その4年後です。

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