○徳川吉宗の政策(2)
9.全国の薬草を調査。若手の本草学者丹羽正伯(21歳)などが、諸国を転々と調査し、薬園の整備や薬種の流通ルートの確定など、吉宗の医療行政ブレーンとして大きく貢献した。また、その他にも野呂玄丈や植村正勝も活躍した。いずれも、吉宗に目をかけられた者達である。なお、野呂玄丈は日本初の西洋本草書を完成させている。また、吉宗はその他にも博物学の発展にも貢献した。彼の後押しで、博物学は大ブームとなるのである。10.キリスト教以外の洋書の輸入を許可。吉宗自身が学問好きであったことも起因の一つ。これにより、殖産興業に大きく貢献。及び、暦の正確さをいっそう増すことになった。
11.1721年。縁座制の廃止。従来、一人の人間が罪を犯すと、一族全員が処刑などの憂き目にあったが、農民・町人に限り犯罪者の子供以下の子孫には罪を及ばないようにした(主人殺しや、親殺しはケースバイケースで判断)。
12.同年に、初めて全国人口調査を実施。ちなみに江戸の人口は50万1394人と判明。
13.井沢為永による新田開発の実施。見沼代用水(埼玉県行田市)亀池を始め、特に治水工事に力を注ぐ。また、新田開発をした代官には、その人一代に限り、その土地からの年貢の10分の1をプレゼントすることにした。
14.足高の制の実施(前述)。
15.1728年、実質的に年貢率をアップ。過去数年間の収穫量の平均を基礎として、凶作でも豊作でも年貢率を変えないことにした。これを「定免法」という。これにより、凶作時における農民の暮らしが悪化した。ただし一方で、代官が不正に年貢を取り立てないようにした。実を言うと江戸時代の農民って、一般に考えられているほど、いわゆる「貧農」ではなかったと言われます。戦国時代よりも遙かに年貢率が低かったらしい。綱吉の時代に至っては税率30%だったらしいから・・・・。
16.1734年、大岡忠相の計らいで「さつまいも御用掛」となった青木昆陽(37歳)が、小石川薬草園で「さつまいもの」試作に成功。生育が容易なさつまいも(甘藷)を普及させることで、飢饉の防止で役立てることになる。
17.1746年、神田佐久間町に天文台を移転。敷地は2500坪(8250平方メートル)測量台は吉宗自らが設計し、観測器も吉宗が製作するなど、ある意味吉宗の趣味でもあった。が、もう一つは暦の改暦である。幕府は、暦の編成を国家事業として独占してきた。今回は、それまで使ってきた貞享暦(渋川春海が中国の授時暦をベースに作った独自の暦)が誤差が目立つようになったため、吉宗の意向で、中国語に訳された西洋の本を参考に改暦することになったのである。
18.大名に1万石につき100石の米を幕府に上納するようにし、そのかわり、参勤で江戸に滞在する期間を半年に短縮した。
19.米価の安定のため最低販売価格の設定。豊作時に米の価格が急落するを防ぎ、幕臣が給料としてもらった米を米屋に安く買われないようにした。が、公認の米屋は取引量を縮小。結局非公認の米屋でしか取引ができなくなる。
20.秘密警察「御庭番」の設置。各大名家の情勢を知らせる。幕末の新撰組に至るまで、諜報は幕府の悪名高い行為の一つである。
と、まあこんなものである。吉宗の改革はこんなにあったのだ。しかし、残念なことに吉宗は「米将軍」と呼ばれるように、あくまで米を中心とした社会に固執した。そのため、社会は商人が力を付け、貨幣経済に移行しようとしていた中での矛盾を克服することはできず、幕府の根本的な財政再建には至らなかった。
また、農民にしてみれば、年貢率を大幅に引き上げられ生活は困窮。おまけに勘定奉行の神尾春央(かんおはるなか)は、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほどでるものなり」と放言し、事実各地に点在する幕府の直轄領を巡視した際、隠し田を摘発し、年貢率も上げて回ったため猛反発を受け、朝廷や公卿に訴えるものが急増した(が、本人は死ぬまで在職)。
また、極端な倹約政策は出費を抑えるという点では効果的だったが、市場にお金が出回らなくなり、さらに贅沢品の購入を禁止するなどして、民の活力は大きく落ち込んだ。(ただし、一方で3年に一度と制限されていた江戸の神田祭と山王祭1年ごとに開催できるようにしたり、桜の木を多く植えて、レジャースポットを作ってはいる)
ま。そういうわけで吉宗の改革は「あくまで幕府を存続させること」であったため、一般の人々には受け入れがたいものがあったのも事実である。これに対し積極財政政策で対抗したのが尾張藩の徳川宗春。これは、またシリーズ後半で取り上げる。また、次回は田沼意次・松平定信・水野忠邦および余力があれば、幕末の老中・阿部政弘を取り上げよう。では。
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