4回 ペルシャ戦争とアテネの最盛期
○アテネの最盛期と民主政確立
ペルシャ戦争はまた、アテネ社会が大きく変わる要因となりました。というのも、戦争で活躍したのは、重装歩兵、そして船の漕ぎ手として活躍した成年男子無産市民です。当然、権利の要求をおこないます。もちろん、この後もペルシャが攻めてこないという保証はありません。そこで、将軍と一部の役職以外は平民の中からも、くじ抽選で選ぶことになりました。なんとアルコンの位まで解放されたそうです。これら、ペリクレス(前495〜前429年)が将軍になってからです。彼は14年わたり、連続して将軍に当選しました。てなわけで、ここで彼が完成させたアテネの政治制度を示しましょう(左図 書き忘れ アルコンは9人です)。こうなっていたんですね。
アテネは絶頂期を迎えます。世界遺産でもあるパルテノン神殿はこの時の建築です。15年かけて前432年に完成しました。詳しくは文化で見ます。
この動き、当然「いいなあ」というわけで他のポリスにも広がります。こうして、ギリシャ各地で直接民主政が普及したのです。ただ、前述のように、女性や奴隷には政治に参加する権利はありませんでしたし、さらにポリス内、そしてポリス同士で貧富の差が拡大してゆきました。
また、平民を操ろうとする動きも現れます。以前の僣主もそうでしたが、こんどはデマゴーグ(民衆指導者)が人々を扇動して政治を混乱させます。そう、デマゴーグはデマの語源です。
さて、ペルシャ戦争以降、またペルシャが攻めてきた場合を想定して、アテネを中心に各ポリスの同盟である「デロス同盟」が結成されました。具体的に何をするのかと言いますと、デロス島にある金庫へみんなでお金を出し合って、海軍の増強に努めるのです。しかし・・・アテネ(ペリクレスの命令)は、その資金を横領してしまいます。なんと、今も残るパルテノン神殿の建築費に充てたのです。
○コラム:ペリクレスと愛人アスパシア
ペリクレスの私生活は不運でした。色々は問題ありましたが、特に頭が痛いのは息子2人はオヤジによく反抗し悪いことをすること。哲学者のプラトンは、これを例にして「徳だけは教えられないなぁ」と揶揄しています。ちなみに、オヤジ(ペリクレス)が厳しすぎたことが原因でグレてしまったといわれています。また、奥さんとも離婚しています。これも、息子達との仲を悪くした原因でしょう。また、彼はアテネ市民は親も祖父もアテネ市民だったものに限ると指定したのですが、ペロポネス戦争の時(これについては次回で見ます)、息子2人が父より早く死にます。この時、幸いにもミレトス出身の愛人アスパシアとの子供がまだ1人いた。でも、このままでは息子がアテネ市民になれない。そこで、民衆に泣いて頼んでやっと特別に許してもらえたといいます。この後ほっとしたのか病気で死去します。
この息子(名前は同じくペリクレス)、なかなか優秀で将軍になります。でも、前406年、戦争中に味方の遺体の救出を忘れ処刑されてしまいました。このことから、味方の遺体回収が重要な意味を持っていたことが解りますね。
ところで、さっきようやく女性の名前が出ましたね。ギリシャでは一般に女性は男性の付属物のようにしか見られていないため(他の地域でも似たようなものですが)女性の名前が歴史に残らないのです。
では、このアスパシア。何者?といえば、どうも元々は遊女を教育する女性だったらしい。こういった立場の人間は、女性を男性好みに仕立て上げるのに長けてますし、自らもそうでした。それで、ペリクレスが気に入ったのですが・・実は、彼女は才色兼備。どうもペリクレスの政治に色々意見を出していたようですな。
特に、ペロポネス戦争の戦没者追悼演説というのが、ペリクレスの名文とされていますが、当時からこれはアスパシアが起草したのではないか?と言われていました。また、哲学者ソクラテスは彼女のことを弁論の師とまで言っています。なかなかの女性だったようです。
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