第12回 第2回三頭政治とローマ帝国の成立

○今回の年表

前43年 アントニウス、レピドゥス、オクタヴィアヌスによる第2回三頭政治。
前34年 アントニウス、エジプト女王クレオパトラ7世と結婚。
前31年 アクティウムの海戦で、オクタヴィアヌスがアントニウス・クレオパトラ連合軍を破る。
前30年 オクタヴィアヌス、アントニウス・クレオパトラを倒し、エジプトを征服。
前27年 オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号が与えられる。
前4年 (ローマ領シリア) イエス・キリストが誕生する
8年 (中国) 前漢が滅亡し、新が成立。
14年 ティベリウス帝が即位。
25年 (中国) 新が滅亡し、劉秀が後漢を建国。光武帝となる。
30年 イエス・キリスト、刑死する。
54年 ネロ帝が即位。
57年 (日本) 倭の奴国王が、後漢の光武帝に使者を送り、金印をもらう。同年、光武帝死去。
64年 ネロがキリスト教徒を迫害。

○第2回三頭政治

 カエサル死後、その遺言により部下のアントニウス(前82〜前30年)レピドゥス(前90頃〜前13年)、そしてカエサルの姉の孫にして養子、さらに相続人に指名されたオクタヴィアヌス(前63〜後14年)の3人で権力を分立する事になりました。これが、第2回三頭政治です。
 アントニウスは、巧みな弁舌によりブルートゥス達に国賊の烙印を押す事に成功。そして、オクタヴィアヌスと共にこれを討伐し、更に邪魔な元老院・騎士身分の人々を粛清し殺害しました。政治家で雄弁家のキケロもこの時アントニウスによって殺されています。

 ところが、アントニウス。オクタヴィアヌスとは領土を巡って対立していた上、オクタヴィアヌスの姉・オクタヴィアを妻としておきながら、クレオパトラと浮気して離婚し子供まで作ってしまう。さらに、カエサルとクレオパトラの子、カエサリオンをカエサルの後継者として承認してしまいます。これでは、養子であるオクタヴィアヌスの正統性が消えてしまいます。

 このため、両者の対立は決定的となり戦闘開始。アクティウムの海戦でクレオパトラ・アントニウス連合軍はオクタヴィアヌスに敗北します。これが決定的な打撃となり翌年、彼女たちは自殺し、さらにカエサリオンも殺されました(プトレマイオス朝滅亡)。また、レピドゥスもオクタヴィアヌスに反抗し、失脚。こうして、オクタヴィアヌスがローマの実力者になったのです。彼が34歳の時です。

 なお、オクタヴィアは、アントニウスとクレオパトラの子供達全員を育て上げたといわれています。

○アウグストゥス帝

 そしてオクタヴィアヌスはローマに凱旋しますが、今までの先代権力者達のように元老院に狙われないように対策を取ります。それが、共和制を尊重するという事で、例えば彼は、カエサルが命を落とす原因となった独裁官には就きませんでした。その代わり、彼は様々な役職を兼任する事で実質的に文武の権力を握り、プリンケプス(第一の市民)として政治を行う事にします。

 元老院としても、強いオクタヴィアヌスに対抗する事は得策ではありませんし、カエサルのようにイレギュラーな大権を保持するのではなく、単に色々な役職にアウグストゥスがついているだけで、共和政のルールが維持されているのですから、大満足状態。ついには、紀元前27年に元老院から満場一致でアウグストゥス(尊厳者)の尊称を与え、インペラトル・カエサル・アウグストゥスと名乗ることになりました。

 アウグストゥスが保持した権力自体は独裁君主と等しいもので、こうしてローマは共和政から、実質的な帝政へと移行するのでした。そのためオクタヴィアヌスは、アウグストゥス帝と呼ばれます。またその後、インペラトルの称号が、英語のエンペラー(皇帝)の語源となりました。

 こうして成立した、アウグストゥスら初期の皇帝による政治体制は、元首政ともいわれます。これは、実際に皇帝としての権力を握った、ローマ帝国の後期帝政(ドミナートゥス)と区別するものです。



”平和の祭壇”「アラ・パチス」(アラ・パキス)  元老院とアウグストゥスの蜜月関係といえば、こちらの建物に代表されるかもしれません。
 これはアウグストゥスが、ヒスパニアとガリアで大勝利を収め帰還するのを元老院が称え、紀元前13年に建築を発注し、紀元前9年に完成した祭壇です。それにしても、よく現存しているものです・・・。



アウグストゥス像(ヴァチカン博物館にて)
 初代皇帝アウグストゥスの彫像のレプリカ。随分色鮮やかですが、最近の研究ではギリシャ芸術などは当時、神殿も含めて彩色されていたそうで、ローマの芸術も本当はこんな感じだったのでしょう。

パラティーノの丘に今も残る、アウグストゥスの家
古代ローマの中心フォロ・ロマーノを見下ろす高台に広がるパラティーノの丘。
高級住宅街が広がっていましたが、その中にアウグストゥスの家もありました。今も鮮やかな壁画が残ります。
 彼は、属州の人口調査と徴税の徹底、都市の自治の拡大、壮麗な建築造の建物を建築(自分で、レンガのローマから大理石のローマにしたと豪語するほど建築が好きだった)、姦通罪の設定、贅沢の禁止などを行います。

 こうして、ローマは彼によって大胆に改革されていきました。ただし何時の権力者でも失敗するのですが、姦通罪にみられるような性の乱れ、それから贅沢、こういったものは、もはや押さえようがありません。だいたい、アウグストゥス自身が2度離婚し、3番目の妻リウィアは人妻でした(もっとも、愛人を作りながらも52年間も添い遂げるし、最初の2度の結婚は政略結婚だった)。問題は、彼は娘が一人いただけで後継者がいなかったことです。



パラティーノの丘に今も残る、リウィアの家
 しかも、その一人娘のユリア。彼女は、これまた性関係に奔放な女性で、しかもアウグストゥスが後継者に選んだ人物に嫁がされても夫がすぐに死去。結局最後はリウィアが先夫との間に生んだティベリウスに嫁がされますが、それでも浮気のオンパレード。アウグストゥスは、ローマから彼女を追い出し、2度と入れませんでした。彼女は、アウグストゥスの死後、跡を継いだ夫・ティベリウスに生活費の支援を打ち切られ、栄養失調で死にました。

 アウグストゥスの最後はリウィアに看取られながらの死です。
「私は自分の喜劇を、最後まで見事に演じきったと思わないかい?」
それが、彼の辞世の言葉でした。

○フォロ・ロマーノの改造


 ところで、「ローマ市民の広場」を意味するフォロ・ロマーノは、紀元前509年の共和政の時代より古代ローマの中心として栄えてきました。しかしカエサルの時代である紀元前1世紀ごろ、フォロ・ロマーノを含めてローマはアテネやアレクサンドリアと比べると見劣りし、レンガ造りの建物や空き地が目立つ状況でした。そこでカエサルはフォロ・ロマーノの改造を構想します。

 しかしカエサルは暗殺されて事業は宙に浮き、初代ローマ皇帝となったアウグストゥスが構想を引き継ぎました。そして、カエサルを称える「ユリウス神殿」を始め、新しい元老院など、殆どの建物をヘレニズム文化を取り入れた美しい姿に造り替え、華々しい姿にしました。アウグストクスは「私はローマの都とレンガの街として引継ぎ、大理石の街として引き渡す」と云ったとか。

○アウグストゥス帝の後継者達

 ティベリウス帝(位14〜37年)は、元老院と仲が悪く、密告による恐怖政治を行ったと言われています。彼は、ローマにほとんどいることなく、ナポリ湾のカプリ島の別荘で過ごします。次の皇帝は甥の子、カリグラ(位37〜41年)。これもまた毒ある皇帝で恐怖政治を行います。

 そのため、親衛隊に殺され50歳でクラディウス(位41〜54年)が即位。奴隷から解放された人を積極的に登用し、ローマ市民権を属州にどんどん与えるなど、すぐれた改革を行います。ところが、妻アグリッピナ(アウグストゥスの曾孫)によって毒殺。ここで、アグリッピナの連れ子で、クラディウスの養子になっていたネロ(位54〜68年)が即位します。悪名高い皇帝です。

 もっとも、ネロ帝は最初から暴君だったわけではありません。最初の5年は、哲学者のセネカの支えで立派に政治をとります。しかし、権力の亡者ともいえた母アグリッピナと対立し、彼女を殺害してから、些細な事で周りの人を殺すなど、行動がおかしくなりました。また、帝位後継者になりえる人物をことごとく殺しています。そのような中で、セネカは引退しますが、殺されてしまいました。

 しかも、ネロは元々皇帝ではなく詩を書いたりする芸術家になりたかったようです。ギリシャ旅行をした際、八百長までして当地でのコンクールで栄光を勝ち取っています。そんなネロ帝、ローマで大火があった時に「ネロが放火したのではないか?」と疑われてしまいます。あわてたネロは、家を失った人々を救済したり、見せ物小屋を作ったりと必死に対策する一方で、少しずつ信者を増やし始めていたキリスト教徒に罪をかぶせ迫害します。
 ですが、もはやネロに対する不満の渦を押さえることは出来ず、元老院より「国家の敵」とレッテルを貼られ、68年に自殺させられました。ネロは、「世界は偉大な芸術家を失った」と泣きながら死んだといわれています。同時に、ネロが他の対立皇帝候補を殺していたこともあり、カエサル、アウグストゥスの血筋の皇帝は終わりました。

 また、この頃からローマ市民は、皇帝に対し楽しみを要求するようになります。それが、「パンとサーカス」です。要は、「タダで食わせろ、タダで面白い事をさせろ」というわけです。そして、働かされるのは奴隷、それから属州というわけです。

○コロッセオ建設

 ところで、この直ぐあと、すなわち72年にヴェスパシアヌス帝によって円形闘技場であるコロッセオが着工されました。これは約8年の歳月をかけて、80年に完成(ヴェスパシアヌス邸の息子ティトゥス帝の治世です)、その後300年にわたってローマ市民たちの娯楽の場として、血なまぐさい試合が行われます。



 特に コロッセオの完成イベント(こけら落とし)では、ティトゥス帝の闘技会が開催。ローマでは紀元前3世紀頃から、剣闘士の試合が市民の娯楽となっており、相手は時には猛獣だったりするのですが、この闘技会では何と2000人もの剣闘士と、5000頭を超える動物が命を落としたそうです。

 ちなみに敗北した剣闘士(生きている場合)は手を上げて慈悲を来い、観客達が「勇敢だった!」と右手の親指を上に立てると命が助けられ、「ダメ!」となれば親指は下を向けられ、勝者によって喉が切られて絶命しました。剣闘士の多くは、奴隷、捕虜、罪人に訓練を施したものです。





 ところで実を言うと、ここはネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)の人工池があった場所に建てたもの。その一部をヴェスパシアヌス帝が潰して、ローマ市民たちに提供した、とまあ、こういう筋書きになっているんですな。ちなみに復元図の左上の大きな人物像は、ネロ帝像。金メッキを施した巨大なブロンズ像(コロッスス)で、コロッセオの語源になったとも云われます。



 コロッセオが出来る前の、ネロ帝の黄金宮殿(ドムス・アウレア)があったころの姿。この池の部分に、コロッセオが造られたんですね。


 さて、完成したコロッセオは、一周がすべて同じ形で、白大理石で覆われていたのですが、ローマ帝国が衰亡し、後世に建設資材として持ちされれた結果、現在のような姿になったのです。ちなみに「円形」と言われますが、実は楕円形です。続いて、内部構造を見ていきましょう。



 アリーナの下に広がるゴツゴツとした不思議な地下空間が見えます。地下には動物の檻などもあり、昇降機を使って猛獣や、模造の森、丘など、様々な舞台セットをアリーナまで運びました。なお、当時はこんな空間が見えていたわけではなく、取り外し可能な板張りの床で覆われていました。そして、1日に何度も決闘が行われ、血で床が染まるたびに、新しい砂がまかれたそうです。


 こちらが当時の復元図。血なまぐさいのは勘弁ですが、ローマの高い土木技術が見て取れます。



 現在の観客席の状態と、かつての観客席の風景の想像図。時には熱くなった観客どうしてケンカもしていたようですね。ともあれ、2000年も前にこれだけの壮大な建築と設備を造ったというのですから、ローマの技術には頭を下げるほかありません。


 ところで、ローマ市内にはもう1つ、コロッセオのような建物が現存します。

 それが、こちらのマルチェッロ劇場(マルケルス劇場)。なんと紀元前10年ごろに完成したもので、カエサルが計画し、初代ローマ皇帝アウグストゥスによって建てられました。マルチェッロとは、夭逝したアウグストゥスの甥の名前で、ローマで2つ目の恒久劇場として建築されました。コロッセオの大先輩ですね。





 残念ながらコロッセオほどは保存状態は良くなく、4世紀にはテヴェレ川にかける橋のために石材を供出。さらに中世には砦になった他、15世紀にはオルシーニ家の館に組み込まれて現在の形に。本来は3層だったのですが、今は2層しかありません。

 ちなみに柱が特徴的で、一層はドーリア式、二層はイオニア式、そして失われた三層はコリント式だったそうです。円形の外周に、半円アーチが並ぶ雰囲気は今でもよく解り、コロッセオと並んで必見です。

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