第17回 東ローマ(ビザンツ)帝国

○東ローマ帝国の暗黒時代

 ユスティニアヌス帝の跡を継いだ人々は、いずれも彼ほどの才能がありませんでした。跡を継いだのはユスティヌス2世(位565〜578年)ですが、イタリアでの戦局が思わしくなく財政難に陥りました。そのため、ササン朝に金を貢いでいる余裕はないとして、これを打ち切りさらに良質な馬を頂こうというわけで中央アジアの遊牧民突厥と同盟を結びます。こうして戦争が再開されるのですが、その頃よりギリシア地域にはスラブ人アヴァール人という異民族が侵攻してきました。

 ヘラクレイオス帝(位 610〜641年)の在位中、613年には、ササン朝によりエルサレムが陥落し、イエスが磔になったという十字架も、都のクテシフォンに持ってかれます。

 ところが、その苦境を救ったのが・・・先ほどエルサレムを奪われた皇帝ヘラクレイオス帝でした。622年、突然眠りから覚めたように軍事行動を開始。626年にはササン朝とアヴァール人達がコンスタンティノープルに攻め込んできますが、ユスティニアヌス帝らが築き上げた高さ30mの城壁により持ちこたえ、反撃! 628年にはなんと、クテシフォンを陥落させササン朝を降伏させました(十字架も取り戻す)。この軍事行動、なんと実の姪と結婚し近親相姦と呼ばれた事に対する反駁もあったそうな。

 しかしまたところが、です。なんと、預言者マホメット(560頃〜632年)によりアラーの神を信仰するイスラム教が成立します。信仰心に燃える彼らは、イスラム帝国として瞬く間にササン朝にとどめを刺して崩壊させます。636年には東ローマ領のシリアを占領。引き続き、エジプトやパレスティナも彼らの手に渡り、制海権まで失うことになりました。

 これに対しヘラクレイオスの孫、コンスタンス2世(位641〜668年)は、自ら率いてイスラム帝国の海軍と戦闘。ところが大敗北を喫してしまいます。663年には、地中海制覇の拠点としてイタリア南部シチリア島のシラクサに遷都しますが、反対も多く暗殺されてしまいました(他にも理由はあったらしい)。

 674〜678年にかけてコンスタンティノープルが包囲され、ついに滅亡か?という段階まで来ました。ところが、「ギリシアの火」という新兵器が発明されました。この兵器は、発射されると水があっても火を噴きながらアラブ艦隊へ向かってゆき、これを壊滅させました。硫黄や精製油、生石灰などを混ぜたものだそうですが、製法は解っておりません。

 こうして、なんとかイスラム帝国の侵攻を防ぎぎったものの、瀕死状態に陥りました。しかし・・それでもなお続く東ローマ帝国はまだ盛り返すこともあり、続いてゆくのです。ただ、官僚がベラボーに多く、皇帝の統制がきかなくなるようになりました。

 さらに、ローマ帝国以来の制度、属州制も変容します。軍管区制(テマ制)の採用です。もはや、中央からの統治は無理となり、帝国をいくつかの軍管区に分割。その司令官に行政権を与えます。さらに、その下に付く兵士達に土地を与え、代わりに軍役を課します。

 このシステム、中央の権力が弱まる一方で、そのかわり西ヨーロッパ諸国に見られる大土地所有による、中小農民の没落を防ぐ事になります。兵士達にあらかじめ、分配しますからね。こうした制度、そしてなんといってもコンスタンティノープルの城壁は東ローマ・ビザンツ帝国の命を存続させることになります。

○誰のためのローマ帝国?

 ところで、この国は不思議な国となりました。時間が経つに連れ、住民はギリシア人や異民族の人々となりながらも、相変わらず皇帝は「ローマ人の皇帝」とよばれ、「市民」と呼べる存在がいなくなっても、下級役人にその役割を代行させます。皇帝即位の時は役人達が市民として参加し、「ローマ人の皇帝万歳!」と昔風に行うのです。

 更にこれは後の話ですが、新興勢力として登場してくるトルコ人、ロシア人といった人々のことを「ペルシア人」「スキタイ人」と昔風に呼称します。また、儀式をすごく重視します。皇帝の妃は、なんと一般から選ばれるのですが、この時行われるのが美人コンテスト。この時、優勝者に対して皇帝はリンゴを手渡します。なんのリンゴか、想像つきますね。アダムとイブのことです。そして、失格者に対し皇帝は「貴方はローマ人の皇帝にふさわしくない」と言うのです。皇帝は、ローマ人ではないのにね。

 そういった意味では、ビサンティン帝国なんて呼ばずに、(東)ローマ帝国と呼称してあげた方が良いかもしれません。

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