第24回 ポーランドとモンゴル帝国の襲来
○今回の年表
962年 | ピアスト朝ポーランド王国が文献に登場。 |
962年 | 東フランク王国でオットー2世が戴冠。神聖ローマ帝国誕生。 |
1096年 | 第1回十字軍。 |
1127年 | (中国)宋が金に圧迫され、南に遷都する。 |
1189〜92年 | 第3回十字軍。 |
1206年 | チンギス・ハンがモンゴルを統一。 |
1241年 | モンゴル軍がポーランドに侵攻してくる。 |
1333年 | カジミエシュ3世即位。 |
1339年 | イギリス・フランスが百年戦争開始。 |
○ポーランドの歴史
さて、今回は東欧、主にはポーランドを見ていきます。ここに国家が出来たのは9世紀頃といわれ、文献に登場してくるのはピアスト朝のミエシェコ1世(962頃〜992年)です。彼はキリスト教を受容します(こう言う時に記録が残るんですね)。そして、彼の息子ボレスワフ1世(位 992〜1025年)の時、西はオドラ川、南から東はカルパティア山脈、ドニエストル川まで領土を広げます。って、地名が出されても解りませんね。まあ、それはさておき、この後は内政混乱による国家分裂と対外戦争の時代。特に大きな事件は1240年〜41年のワールシュタットの戦い。チンギス=ハンの下、突如として中央アジアを征服したモンゴル帝国が、次のハン(王)オゴタイの命令で、その従兄弟のバトゥ指揮の下、侵攻してきたのです。
これに対し、シュレジエン公ハインリヒ2世自ら率いるドイツ騎士修道会とポーランド王国連合部隊は、モンゴル軍支隊3万〜4万におよぶ騎馬の大軍に対して大敗。そもそもハインリヒの重装騎士は1万人で、自身も戦死しました。 その後、モンゴル軍はハンガリー王国の首都ベストを攻略しますが、オゴタイ・ハン病死のため、後継者問題がありますので引き返しました。それ以後、バトゥはキプチャク・ハン国を建て、ロシア地域を支配。ポーランド方面には大規模な侵攻は行ってきていません。
混乱続くポーランドを統一し、「木のポーランドを石のポーランドにかえた」と絶賛されるのがカジミエシュ3世(大王 1333〜70年)。ドイツ騎士修道会、ボヘミア王国と関係を良くし、ユダヤ農民のポーランド移住奨励など、内政・外交で活躍。1347年には、王国の法律を成文化。また、1364年に首都クラフクにおいてクラフク(ヤゲェウォ)大学を建設し、学問の充実を図ります。
ただ、息子がいなかったためビアスト朝はここで断絶。彼の甥でハンガリー王オヨシュが王位を継承しました。
それから、1386年にポーランド女王ヤドビガはリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名・ヤゲェウォ)と結婚。リトアニア・ポーランド連合王国が形成され、ヤゲェウォ朝はポーランドの黄金時代を作ります。ドイツ騎士修道会を打ち破り、領土を広げます。
1512年、ヤゲェウォ朝が断絶すると、以後ポーランドは選挙王制に。セイムと呼ばれる議員達が国王を選ぶのですが、これの力が強すぎ、国王は何をするにも彼ら全員一致の同意が必要でした。これによってポーランドは衰退しました。この続きは、またあとで。
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