第26回 イギリスVSフランス?と教会の衰退
○今回の年表
1066年 | (英)ノルマンディー公ウイリアムが、イングランドを征服。 |
1154年 | (英)プランタジネッタ朝はじまる。 |
1189〜92年 | 第三回十字軍。イギリスの王弟ジョン、兄のいない間に国を奪う。が、奪還される。 |
1192年 | 源頼朝、鎌倉幕府を開く。 |
1206年 | チンギス・ハンがモンゴル平原を統一。以後、中央アジアに大帝国を作る。 |
1215年 | (英)ジョン王がマグナ・カルタに調印。 |
1234年 | (中国)モンゴル軍が、中国華北の「金」を滅ぼす。 |
1241年 | ワールシュタットの戦い。モンゴル帝国軍、ポーランドに侵入。 |
1273年 | 神聖ローマ皇帝に、ハプスブルク家から初めて選出。ルドルフ1世。 |
1274年 | (中国)元が、日本に侵攻(文永の役)。81年にも再遠征(弘安の役) |
1287年 | 元が、ビルマのパガン朝を滅ぼす。 |
1303年 | アナーニ事件。教皇ボニファティウス4世が、フランスのフィリップ4世に捕まる。 |
○フランスのイギリス、イギリスのフランス?
1066年に、西フランク(フランス)王国のノルマンディー公ウイリアム(ウイリアム1世)がイングランドを征服したことは前述しました。その後、12世紀になって王位を巡って内紛が発生。
結局、ウイリアム1世の息子ヘンリー1世の娘、マチルダと結婚していたフランス・アンジュー伯のジョフロアの息子が、ヘンリー2世として即位しました(位1154〜1189年)。これが、プランタジネッタ朝です。
これにより、イングランド王国はノルマンディー地方を始め、アンジュー伯の領地や政略結婚でえた領地を合わせ、フランスの西半分を支配するようになります。ただし、ヘンリ2世から見れば、フランスからイングランドを支配しているといった方がよいかも知れません。彼は基本的にフランスに滞在していました。(図は1360年頃、この当時は、完全にフランスの西半分がイングランド領だった)
一方のフランス王国。これも前述しましたがカロリング家の断絶で後継者となったカペー朝は、パリ周辺にしか実権が及ばず、 そんなわけで諸侯が半独立状態でした。しかし、ルイ6世(位1108〜1137年)と宰相シュジュールは王権の拡大に成功。また、フィリップ2世は第3回十字軍をやっている最中に、同じく出陣していたイングランド王国のリチャード1世(獅子王)(位1189〜1199年)の弟ジョン(欠地王)に「兄のいない間に王位に就いたらどうだ?」と誘惑。
これは、途中神聖ローマ帝国に捕まり身代金を払うものの、何とか本国に帰還したリチャード1世が王位を取り戻し、報復攻撃を受けます。が、リチャード1世は負傷し、死亡。その後、先ほどのジョンが継ぎます(位1199〜1216年)。が、フィリップ2世の敵ではなくフランスにおけるイングランド領の大半を占領しました。
こうして、ジョンは領土の大幅な縮小を招いてしまったばかりでなく、さらにカンタベリー大司教の任命を巡り、教皇インノケンティウス3世から破門されます。1215年、貴族は失策続きのジョンに対し、マグナ・カルタ(大憲章)に調印させます。
マグナ・カルタは世界最古の憲法と言っても過言ではなく、イギリス立憲政治の出発点であります。内容を簡単に確認。
・貴族たちの封建的諸権利を保障。
・貴族の国王への上納金や援助金、城砦守備の義務など、封建的負担を制限。
・商業の保護。ロンドンその他の都市の活動の自由や外国商人の通商の自由を保障し、度量衡を統一する。
・常設の民事裁判所の設置、重罪人に対する没収方法の統一。
・訴訟方法の確立。噂や疑惑ではなく、証人がいないと告訴できない。
・自由人は誰でも、法律以外で命・自由・財産を勝手に奪われない。 こんな感じで三九条からなります。こういった権利関係を明示するものが憲法(基本法)です。ちなみに、日本では聖徳太子の十七条の憲法がありますが、あれは「仏教を敬え〜」などの倫理的規範を示したもの。今で言う、憲法ではありません(と、いうか、大日本帝国憲法を作る時に、昔に習って憲法という言葉を借用したわけ)。
ちなみに、ジョンはイギリス史上最も暗愚な王とされ、その後、ジョンの名前を付けた王は登場していません。
なお、ジョンの息子ヘンリー3世(位1216〜1272年)はマグナ・カルタを無視。これに対し、1258年にシモン・ド・モンフォールを中心とする貴族の反乱が発生。1265年に鎮圧されましたが、従来からあった聖職者・貴族の集会に、騎士・市民の代表が参加する議会が招集されました。これが、イギリス議会の発祥といわれています。ちなみに、市民といっても、当時の常識では富裕層のことを指しますので、お間違えの無いよう・・・。
ちなみに、ヘンリー3世はロンドンにあるウエストミンスター寺院の再建に着手した王様です。1245年にフランス人技師をまねき、フランスのゴシック建築を基本に建てさせました。ただし、これだけの壮大な建物です。彼の時代に完成することはなく、14世紀末に概ね完成した後、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀に完成するという、大変な時間をかけて建てられています。
○フィリップ4世、プッツンキレる。中世の約200年、すなわち十字軍が盛んだった頃は教会の権力が最盛期でした。しかし、同時に国王も勢力を領内に浸透させてきました。そのため、無理して教会のご機嫌をとらなくても良いようになります。1296年、フランス国王フィリップ4世(位1285〜1314年 十字軍の情熱をかけたルイ9世の孫)、イングランド国王エドワード1世(位1272〜1307年 ヘンリ3世の孫)に対し、教皇ボニファティウス8世(位1294〜1303年)は、お説教をします。 何のお説教かというと、2人の国王が、互いに戦争するための、軍隊の経費を捻出するために勝手に教会に課税したことに対し、「勝手に税金とるな。教皇の了承を求めよ!」というものです。。 これに対し、フィリップ4世は「あ、そう。それならローマに経済封鎖してやるもんね」と、ローマに貨幣と金の流通をストップ。教皇の敗北です。結局うやむやに妥協し終わりました。 ところがさらにフィリップ4世。1301年、教皇特使で司祭のセセを反逆罪で投獄します。当然、ボニファティウス8世、「そんなこと、王様の権限外だ〜!!」と非難。翌年には、「教皇はあらゆる統治者の上に立つ!」と教書を出します。これに対しフィリップ4世、 「教皇はクビだ!」、ボニファティウス8世「は、破門してやる!」 と、破門を最後の武器にしたのですが、ついにフィリップ4世は彼を捕らえます。そして、拷問の末、ボニファティウス8世はこの世を去りました。これを、アナーニ事件と呼びます。そして、フィリップ4世は教皇庁を自領の南フランス、アヴィニョンに移します。これを、古代ユダヤ人がバビロンに連れ去れれた、バビロン補囚に例えて、「教皇のバビロン補囚」といいます。 ○フィリップ4世、三部会を招集イギリスで議会が招集された話は前述しました。フランスでも似たような動きが行われます。もっともこちらはフィリップ4世自身が、ボニファティウス8世を捕らえていいものですか?と支持を得るために招集したもの。全国の聖職者・貴族・市民の代表を集め、ノートルダム寺院にて集会(三部会)を行いました(当然、支持される)。これが、フランスの身分制議会の始まりとされています。 次のページ(百年戦争!)へ 前のページ(もう一つの十字軍・スペイン)へ |