第33回 ハプスブルク家の登場と宗教改革

○今回の年表

1273年 ルドルフ1世、神聖ローマ帝国皇帝に。ハプスブルク家から初当選(〜91年)。
1291年 スイス3州がハプスブルク料からの独立を宣言。/十字軍終了。
1333年 (日本)鎌倉幕府滅亡。
1339年 英仏で百年戦争開始(〜1453年)。
1368年 (中国)元王朝が滅亡、漢民族王朝「明」の成立。
1455年 バラ戦争開始(〜85年)。
1517年 ルターが九十五箇条の論題を発表し、ローマ教会を痛烈に批判。
1519年 神聖ローマ・カール5世の即位(〜56年)。スペイン王としてはカルロス1世(16年〜)。
1519〜22年 マゼラン一行が世界一周を果たす。ただし、マゼランは途中で死去。
1521年 ヴォルムス帝国議会で、新教(プロテスタント)が禁止される。
1529年 オスマン・トルコ帝国が、ウィーンを包囲。
1534年 イギリス国教会発足。ローマでは、イエズス会発足。
1555年 アウグスブルクの宗教和議。

○元は田舎の一領主

 話が前後してしまうのが、ヨーロッパ史の常。本当に申し訳ないです。さて、ヨーロッパ史を語る上で欠かすことの出来ない存在が、ハプスブルク家です。もう、カール5世・フェリペ2世親子は登場しましたし、第21回で発祥は触れましたが、復習も兼ねて、最初から見ていきますよ。

 ハプスブルク家というのは、11世紀頃に登場。元々はスイス・ドイツ・フランスの国境付近を領有する領主でした。それが、たまたま神聖ローマ帝国で皇帝を巡って争いが起きた時(いわゆる、大空位時代)に、「こいつなら害はないだろう」と皇帝の座に推挙されたことから運命は変わります。この時の人物が、ルドルフ1世。1273年のことです。

 神聖ローマ帝国では、7人の世襲の選定侯による選挙で皇帝が選ばれ、彼らの操りやすい人物が選ばれた・・・はずだったのですが、このルドルフ1世。なかなかの人物。

 戴冠式の時、強国だったボヘミア王オットカル2世は、「なんで、あの田舎者の戴冠式に参加せねばならんのだ。皇帝にふさわしい者は俺だ!」とルドルフ1世の即位を無視します。ところが、これこそルドルフ1世にとってボヘミア王を追討する立派な大義名分となります。しかも、ルドルフ1世は、好人物で統率力にも優れていました。

 こうしてルドルフ1世は、オットカル2世を戦死させ、この地を領有。
 ボヘミアとは今のオーストリアとその周辺で、この地にハプスブルクの縁が出来ます((ただし、ボヘミアそのものを奪い取ったのはルドルフ1世の玄孫のアルブレヒト5世の時からです)。また、本来であれば神聖ローマ帝国の皇帝は、ローマ教皇から戴冠するのが原則なのですが、当時のローマ教皇からは「俺はこいつが好きではない」と、色よい返事が貰えず正式な皇帝とはなっていません。

 ともあれ、なかなか有能だったルドルフ1世でしたが、その後継者が大したことない。そのため、皇帝の座は他家に持っていかれ、しかもハプスブルク家は分割相続制だったため、力が大幅に減退しました。さらに、ハプスブルク家の元々の領地だったスイス地方では独立運動が始まり(スイス誓約同盟)、ここの農民軍に惨めな敗戦を重ねたハプスブルク軍は、領土を失ってしまいました。これを描いた作品が、シラーの戯曲「ヴィルヘルム・テル」です。こうして、ハプスブルク家=オーストリアというイメージが出来上がるんですね。また、農民軍に負けた騎士は、その地位を大幅に低下させることになります。

○フランスと犬猿の仲に

 さて、力を失ったばかりに、またもハプスブルク家に皇帝の座がやってきました。130年ぶりに皇帝の座に就いたのが、25歳のフリードリヒ3世(位1440<52>〜93年)。やはり、こいつなら毒にならんとの思惑でしたが、忍耐をモットーとする彼は、弟やハンガリー王の攻撃にも、ある時は姿をくらますなど、恥も名誉も捨てて実益をとり、そうこうしているうちに、ある者はフリードリヒ攻撃をあきらめ、また死去し、いつしかフリードリヒ3世が勝利していました。

 そして、その息子のマクシミリアン1世(位1493〜1519年)は、当時ヨーロッパ文化の中心だったブルゴーニュ公国シャルル突進公の、ただ一人の娘と、ねばり強い交渉の末結婚。そしてシャルルの死去と共に公国を相続。これに対し、フランスのルイ11世は「仲が悪いとはいえ、元々ブルゴーニュ公国はうちの王国の血筋だ!」と怒らせます。

 ちょっと見ておくと、このブルゴーニュ公国は、3代目フィリップ善良公は、100年戦争後期にイギリスと手を組み、ヴァロワ朝本家のフランスと、覇権をかけて戦ったぐらいです。シャルル突進公は4代目に当たります。

 で、ただでさえブルゴーニュ公国は強大で、本家フランス王国としても何とかせにゃあかん、と言う状況だったのに、なんとハプスブルク家に取り込まれようとしているのです。黙っているわけにはいきません。ここに、フランスVSハプスブルク家の因縁の戦争が始まるのです。ちなみに、マクシミリアン1世は優秀な人物で、フランス軍との戦争に圧勝しています。

 ちなみに、マクシミリアン1世はドイツ語。ブルゴーニュから来た嫁さんはフランス語を話します。これではコミュニケーションが・・・。しかし、マクシミリアン1世はフランス語をあっという間に習得したそうです。ハプスブルク家の人達は、その後も言語が優秀な王が続き、そのため、多民族国家である神聖ローマ帝国を支配出来たのです。

 また、この時ブルゴーニュ公国の経済観念、統治機構などを学習し、神聖ローマ帝国の近代化が図られました。ですが、ドイツ国内はなかなかまとまらず、色々と諸侯に譲歩する格好になります。また、おきまりのイタリア政策もフランスやヴェネツィアに後れを取りました。

 但しハプスブルク。これは今後も続くのですが、政略結婚でどんどん領土を拡大。血を流すことなく力をつけていきます。また、歴代の王達はお人好しが続き、一度した約束は絶対に守る。これは、君主は狐でアレ(つまり、嘘も方便)、と主張するマキャベリが大爆笑しそうな王達なのですが・・・。

 正直者は救われると申しましょうか、お陰で、周辺国が次々と血みどろの闘争を続け、王家が断絶する中で、第一次世界大戦まで王家を存続させました。そんなハプスブルク、私は好きです(笑。

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