第38回 ロシア帝国の成立と発展
○今回の年表
1480年 | モスクワ大公国、キプチャク=ハン国から独立。 |
1517年 | ルターが95箇条の論題でローマ教会を批判。 |
1534年 | ヘンリ8世、イギリス国教会発足させる。ローマでは、イエズス会発足。 |
1547年 | イヴァン4世、ツァーリを称す。 |
1549年 | 日本にカトリックの一派キリスト教が伝わる。 |
1588年 | スペインの無敵艦隊がイギリスの敗北。翌年、フランスではブルボン朝はじまる。 |
1613年 | ミハイル・ロマノフ、ロマノフ朝をはじめる。 |
1618年 | 三十年戦争。神聖ローマ帝国VSデンマーク・フランスなど。 |
1644年 | 明が滅亡し、満州族の清が中国支配を始める。 |
1682年 | ピョートル1世(大帝)が即位。 |
1688年 | イギリスで名誉革命が起こる。翌年、権利章典が発布される。 |
1700年 | 北方戦争(〜21年)。スウェーデンとロシアが争い、ロシアが勝利。 |
1756年 | 女帝エリザベータ、七年戦争に参加。 |
1762年 | エカチェリーナ2世が即位する。 |
○ロシアの出現
今まで、ドイツとフランスを中心に見てきましたが、ちらほらとロシアの影が出てきましたね。基本的にはロシア史のコーナーを是非読んで頂きたいのですが、ここでも、そのロシアについてざっと眺めることにします。時代は相当前に下り・・・。15世紀。ロシア地域はモンゴル帝国の1派、キプチャク=ハン国に支配されていました。地域の各諸侯達はキプチャク=ハン国に朝貢をし、なんとか地位の保全を図っている、そんなところです。ところが、盛者必衰と言うべきかキプチャク=ハン国にも衰退の時がやってきます。そこを見逃さず、自らの勢力を拡大したのがモスクワ大公国、てなわけです。
補足しておくと、モスクワは、キエフ公国時代は小さな村でしかなかったのですが次第に人口が増加。14世紀にキプチャク=ハン国に取り入ったイヴァン1世がウラジーミル大公の称号をもらったことで発足した国です。その孫のドミトリー・ドンスコイは、他のロシア諸侯と協力し、1380年にキプチャク=ハン国軍を打ち破り、名声を高めます。その100年後、ついに独立を宣言。その頃までにはノブゴロド国などを併合し、押しも押されれぬ国力を誇っていました。
その当時の大公がイヴァン3世(位1462〜1505年)。彼は、滅亡したビザンツ帝国の娘と結婚しています。この縁があって、孫のイヴァン4世(位1533〜84年)は、1547年、それまで非公式に使用したツァーリ(皇帝:カエサルのロシア語)を名乗ります。皇帝という言葉は、ローマ皇帝しか名乗れません。つまり、モスクワ大公国は、ローマ帝国の後継を自認するのです。
このイヴァン4世は、南のカザン・ハン国(チンギス・ハンの末裔ウルグ・ムハンマドが1480年に建国したもの)、アストラ・ハン国といった、キプチャク=ハン国の分裂したモンゴル・トルコ系の国家を、それぞれ1552年、56年に併合。また、内政面では中央集権化を進め、全国代表者会議(ゼンスキー・ソボル)という議会を招集したりします。この時代、まさにモスクワの最盛期、「第3のローマ」とよばれます。
ところが、この人物には困った点が。とにかく怒りやすいのです。織田信長みたいに。しかも、非常に残忍で多数の大貴族を虐殺したり、お気に入りに好き勝手にやらせたり、ノブゴロドの住民を敵に通じたという曖昧な噂で数千人も虐殺したり、それどころか81年には、口論で息子を殺害。
殺害したあと、しまった!と大泣きしたらしいですが、もはや後の祭り。
そんな彼は、雷帝と呼ばれ、文字通り雷のごとく恐れられました。
この後、息子を殺してしまったばかりに後継者がいない。
そのため大空位時代となり貴族間で争いが発生します。
そして1613年、ミハイル=ロマノフがこれを制し、ロマノフ朝を開始します。