第45回 フランス革命
○今回の年表 (長くてご免なさい)
1774〜92年 | (フランス)ルイ16世による統治が始まる。 |
1775〜83年 | アメリカ独立戦争が起こる。 |
1776年 | アメリカ独立宣言。翌年には星条旗が制定。 |
1783年 | イギリスで小ビット内閣が成立(〜1801年)。 |
1783年 | パリ条約が結ばれ、イギリスとフランスがアメリカ合衆国の独立を承認。 |
1787年 | アメリカ合衆国憲法が制定。 |
1789〜97年 | 初代大統領にワシントンが選ばれ、統治が行われる。 |
1789年 | 三部会が招集。第三身分側はテニスコートの誓いを行う。 さらに、バスティーユ牢獄襲撃で革命が勃発。 人権宣言が出される。 ジャコバンクラブの成立 |
1791年 | 国王がパリから逃亡を企てたヴァレンヌ事件が起こる。 立法議会の招集。 |
1792年 | ジロンド派内閣の成立、オーストリアに宣戦布告。 国民公会が招集、王政の廃止により共和制を宣言。 |
1793年 | ルイ16世を処刑。 イギリスなどは第1回対仏大同盟を結成。 フランスでは革命裁判所、公安委員会を設置。さらにジャコバン派による独裁。 そして、マリー・アントアネットが処刑。 |
1794年 | ダントンが処刑される。 テルミドール反動が起こり、ロベスピエールらが処刑される。 |
1795年 | 1795年憲法が制定され、総裁政府が成立。国民公会は解散。 |
○ルイ15世の時代
さあて、ようやくここまで来ました。太陽王と言われたルイ14世の時代は、数々の戦争によって国家財政に大きく悪影響を与え、その孫で後を継いだルイ15世(位 1715〜74年)は、フレンチ=インディアン戦争でアメリカをめぐってイギリスと戦い実質的に敗北して、さらに財政を悪化させ、本人の女性スキャンダルで国王の威信を大きく低下。その政策も行き当たりばったりで、どの方向を指しているのか不明。
それでも、お気に入りの側室で当時、彼によって絶大な権力を与えられていたポンパドゥール公爵夫人の外交力で、宿敵・神聖ローマ帝国と同盟を結ぶことに成功(1756年)。この一環として、ルイ15世の孫で、のちのルイ16世と、フランツ1世、マリア=テレジア皇帝夫妻の娘で生まれたばかりのマリー=アントアネットの婚約が成立します。
もっとも、そのおかげで危機感を抱いたプロイセンが宣戦布告し、イギリス・プロイセンVSオーストリア・ロシア・フランス及びその同盟国による七年戦争が発生。前述のフレンチ=インディアン戦争はこの一環として行われたもので、さらにインドでもイギリスVSフランスの植民地戦争が勃発。
この結果、植民地競争ではイギリスが圧勝し、おかげでさらにフランスの財政が悪化します。
また、プロイセンは神聖ローマ帝国からシレジア地方を獲得しています。このあたりは、第37回などを参照にしてください。ちなみにポンパドゥール公爵夫人は、この七年戦争勃発という事態に深く落ち込んだそうです。それでも、芸術家の育成や、セーヴル王立磁器製作所の設立など、フランス文化の向上に尽力し、42歳で亡くなっています。
○フランス革命前夜
そして、ルイ16世(位 1774〜1792年)が即位します。マリー=アントアネットはフランス王妃となり、最初は民衆からの支持も厚かったのですが・・・。ご存じの通り、マリーアントアネットは最初こそ完璧な礼儀作法かつ、フランス語で生活するという模範生ぶりを発揮したものの、趣味が錠前造りという、国王らしからぬメカニックオタクの夫とは仲が良くなかったこともあり、次第に洋服や宝石を買いまくる豪華な生活に溺れるようになり不興を買い、人々の怒りの矛先になっていきます(もっとも、お金はルイ16世のポケットマネーからでているんですけどね)。
マリー=アントアネットの言い分もあるでしょうよ。
例えば、ルイ14世の時代から王家の暮らしを人々に公開しよう!となっていたんですが、出産まで公開になっていたんです。マリー=アントアネットの場合、あまりに多くの人々が押しかけたため、その熱気が部屋に充満し、彼女は失神しかけたとか。さすがにルイ16世も心配し、自分で窓を開けて外気を取り入れ事なきを得ましたが、このように、彼女は常に人の目のある生活を余儀なくされており、そのストレスは蓄積する一方だったんでしょう。
しかし、そんな泣き言をするような余裕を歴史は与えてくれませんでした。
大西洋を隔てたアメリカ大陸で独立に向けた動きが進む中、フランスでは「旧体制=アンシャンレジームを打破せよ!」と、大きな変革の波が起こっていたのです。結論から言ってしまえば、革命が起こりブルボン王朝が倒れてしまったのですが、では、どうしてこのようになっていったのか。
革命が起こる前のフランス、のちにアンシャンレジーム(旧制度)と呼ばれる頃の、身分別人口構成は
第一身分=聖職者・・・12万人
第二身分=貴族・・・38万人
第三身分=市民・・・250万人、農民・・・2300万人
といった感じでした。当然、第一、第二身分が支配層です。さらにこの支配層は、フランスの35%も土地を所有し、税金は10%。ところが、市民は20%、農民は30%の土地を所有する一方で、税金の負担率は80%だったんです。まさに、この支配層は特権階級! 第三身分の不満は募る一方でした。
一方で国家財政の方はどうか。
今まで見た通り、ルイ14世、つづくルイ15世は数々の戦争を行い、また豪華な生活をし、そして今回の主役の1人であるルイ16世(位1774〜92年)はアメリカ独立戦争を支援したため、非常に窮乏した状況でした。とはいえ、いくら何でもこれ以上第三身分から税金を取り立てるわけにはいきません。
そこで、ルイ16世はテュルゴー、ネッケルに財務総監のポストを与えて財政改革に取り組ませます。
どこから税金を取り立てるのがもっとも妥当で手っ取り早いかを考えれば、当然、支配層から取り立てること。とは言え、こんな美味しい特権を手放すわけがないですから2人は猛反発に遭い、辞職に追い込まれました。しかし、1788年に大飢饉が起こり、社会不安が増大。流石に何とかしなければなァ、ということになります。
1789年
そこで、財務総監に再任していたネッケルは三部会を開くことを提案し認められます。
三部会とは身分別の議会。
ここでフランス王国に住むみんなで決めてしまおうじゃないか、ということなんですね。
1641年以来、久しぶりの開催となりました。
こうして1789年5月、ヴェルサイユに第一身分、第二身分から各300人ほど、第三身分から600人ほどが集められ、スタートします。・・・が、当たり前のことですが第一身分、第二身分が「特権を返上し、国家のために税金を沢山払います!」なんて言うわけがありません。
一方第三身分側は、「ならば、きちんと憲法を制定し、我々の権利と義務についてきちんと明記して頂きたい」と要求しますが、これも当然拒否。この三部会は国王側にはむしろ失敗となってしまいます。結局、第三身分側は球戯場(テニスコート)の誓いを行い、「憲法が成立するまで戦い抜くぞ!」と国民議会を組織します。また、第三身分という言葉は差別的だ、ということでコミューンを自称します。
これに進歩的貴族や、下級聖職者等も参加。
第一身分、第二身分の中にも理解者がいた、ということと、みんなが特権を持っていたわけではないということです。特に下級聖職者は農民や職人の出身者が大半で、しかも町や村で貧乏な神父さんをしていたんですね。
そしてルイ16世もこの動きを了承し、正式に憲法制定国民議会が成立します。
ところが、だからといってルイ16世側が、この動きを放任していたのかというと、さにあらず。
準備が整い次第、軍隊を使って強硬に弾圧を開始し、さらにネッケルを罷免。ネッケルは国民全体から人気もあった上、この時期に食糧危機も起こっていたことから、7月14日。パリの群衆はバスティーユ牢獄を襲撃しました。
○バスティーユ牢獄
このバスティーユ牢獄がフランス革命の直接的な幕開けとされ、フランスではこの7月14日が革命記念日となっているそうです。では、この牢獄っていったいなんだ? そして、ここで何が起こったのでしょうか。まず、バスティーユ牢獄というのは1383年、パリを守る要塞として建設されたものです。
もっとも、17世紀からは政府の牢獄として使用され、多くの著名人も収容されていました。そのため、国王の専制政治の象徴的な存在でしたが、牢獄という名前から来るイメージとは裏腹に、それほど囚人の扱いは酷くなかったようです。また、この襲撃時に収容されていた人物はたったの7名だったとか。
さてこの日。
バスティーユ牢獄の長官、ローネイ侯爵は迫り来る民衆に驚き、彼らの要求である「牢獄内にある武器弾薬の受け渡し」を認め、自分の命を助けてもらうことで合意します。・・・いや、したはずでした。ところがローネイ侯爵には不幸なことに、話がこじれてしまい、その間に外で待機していた民衆達は「まさか、我々の交渉代表者達はローネイに殺されたのではないか?」と興奮し、バスティーユ牢獄に対し攻撃を仕掛けます。その結果、ローネイ侯爵は捕らえられ殺害されてしまいました。
そして民衆達は、新たに結成した国民衛兵の司令官にラ・ファイエット侯爵を選び、さらにパリ市長も任命します。
ラ・ファイエット侯は、名門貴族の出身でしたがアメリカ独立戦争に理解を示し王の命令を無視して勝手に参加。ワシントンの参謀を務め、さらに最大にして最後の戦闘であるヨークタウンの戦で、コーンウォリス卿ひきいるイギリス軍を降伏させ、英雄となります。そんなわけで人々からの人気も高く、また三部会の時には、絶対王政に反対する自由主義者として名声を得ていました。
そして彼は、王家の白とパリ市の赤・青をくみあわせて、三色旗を考案。これは自由の青、平等の白、博愛の赤という意味も付けられ、翌年(1790年)よりフランス国旗となります(今も同じ)。また、このタイプの国旗は多くの国で国旗を制定する際に参考にされていきます。そしてラ・ファイエットらは、アメリカ独立宣言にならってフランス人権宣言の起草を行います。
○フランス人権宣言
さあ、この人権宣言というのが大事なんですよ。その前に・・・ですけど、8月4日。つまり、バスティーユ牢獄襲撃から1ヶ月も経たないうちに、議会は貴族の特権廃止を決定。ノワイユ侯爵(1756〜1804年 ラ・ファイエットの義兄弟)、エギヨン公爵(1761〜1800年)の発言がキッカケで、「どうせなら」と、次々と貴族達は自分たちの特権廃止を提案し、何かに取り憑かれたかの如く、特権を消し去っていきました。
また、これに前後して農村でも貴族に対する暴動が続発し、多くの館が襲撃されます。
そして8月26日に、この人権宣言というのが採択されます。ちょっと見てみましょう。
第一条、人間は自由かつ権利において平等な物として生まれ、また、存在する。社会的な差別は共同の利益に基づいてのみ、設けることが出来る。
=つまり、原則として人は皆平等だ!と身分を否定したわけです。
第十七条 所有権は神聖かつ不可侵の権利であるから、何人も適当に確認された公共の必要が明白にそれを要求する場合であって、また事前の公正な補償の条件の下でなければそれを奪われることが出来ない。
=これが、もの凄く大事なのですが「所有権」という概念の誕生です。
それまで、国王や貴族の気持ち1つで、勝手に庶民の物が取り上げられていましたが、この宣言によって「勝手に人の物を取り上げるな! 例外としてみんなの利益になる場合には認めるが、しかしきちんと補償をしなさい」となったのです。これは、世界に影響を与えます。
ヴェルサイユ宮殿
このように革命は急速に進行します。
ビックリしたルイ16世でしたが、このような動きを認めるわけにはいかず、国民議会の弾圧に乗り出します。この時期、食糧不足だったこともあり、パンを求めた女性達が集まり「ヴェルサイユへ!」の声と共に、槍で武装し、何と大砲まで引っ張って行進を始めます。
これを見た男たちも行進に加わろうとしますが、後ろにしか入れてもらえず、結局、女性の大軍を先頭に民衆の行進がヴェルサイユ宮殿へと押し寄せます。
そして「国王はパリに在住し、食糧不足を解決しろ!」と、国王一家をパリに連れ帰ります。これを、ヴェルサイユ行進といいます。連れ帰られた国王は、パリの中心にあるチュイルリ宮殿へと入り、今までに出された進歩的な法令を承認せざるを得ませんでした。
・・・ちなみに、この動きは背後でルイ14世の弟の直系の孫であるオレルアン公が操っていたとか。
「ルイ16世を退位させて、オレが国王に・・・」と
というのが、目的だったようです。
○フランス国民を作り出せ
さて、国民議会は新たな国家作りに着手します。当時のフランスは、地域ごとの独自性が非常に強く、色々なことがバラバラでした。そもそも、身分も3つに別れていたのですが、取り敢えず表面上はこれが消滅した。そこで、一体となった「フランス国民」というのを作り出すことにします。そのためには、色々なものを平等にしないといけません。これはフランス革命を通じて行われていくことですので、本文の中で追々見ていきます。
取り敢えず、この年の12月には新たな行政区画がスタートし、
・83の県(デパルトマン)と、その下に郡、小郡、市町村を置く。
・これに合わせた裁判所の設置
が行われます。さらに、翌年には貴族の称号が正式に廃止となります。
1791年
そして、それまでヨーロッパではギルドという団体が結成され、この中で特権的な商売などが行われていましたが、1791年6月にル・シャプリエ法を施行し、あらゆる団体を結成することを禁じます。これで、商売は誰でも自由に出来るようにしたのです。
それから財政を豊かにするために教会の財産を没収し、聖職者を国家公務員とします(これにより教会勢力の弱体化も図られます)。そして、これは1794年6月のことですけど、フランス語は1つだ!ということで、方言も使用禁止とされたり、目上の人が目下に使う言葉も使用禁止、などが実行されていきます。
もっとも、革命が起こっても我々の生活は変わらないと考えた都市の貧困層や、教会の影響が強い地方の農民達は、この革命の動きにも次第に抵抗していきます。時には狂気に満ちた弾圧、虐殺など、非常に血なまぐさい動きも発生していきます。
○右翼と左翼
ところで、この時に生まれた言葉が「右翼」「左翼」です。日本では国粋主義者(ナショナリスト)のことを右翼、共産主義者、もしくは過激人権派のことを左翼と言ったりしますね(最近ではこの分類も意味のない物になりつつありますが)。で、この言葉ですが、当時のフランス議会での席に由来します。
議場の右側・・・王政と貴族の特権をまもろうとする貴族たち
議場の真ん中・・・立憲王政を支持する自由主義貴族と上層のブルジョワたち
議場の左側・・・共和政をのぞみ、また貧困階層の要求をうけいれようとする人たち
と、こんな感じです。ちなみにラ・ファイエットは真ん中。
このうち、左翼が急進派を意味するようになるのは・・・後述します。