第46回 フランス革命(2)ナポレオン時代
○今回の年表 (長くてご免なさい)
1769年 | ナポレオン、コルシカ島の貴族の家に生まれる。 |
1776年 | アメリカ独立宣言。翌年には星条旗が制定。 |
1789〜97年 | 初代大統領にワシントンが選ばれ、統治が行われる。 |
1793年 | (日本)松平定信が老中を辞任。 |
1794年 | ダントンが処刑される。 テルミドール反動が起こり、ロベスピエールらが処刑される。 ナポレオン、ロベスピエール派として2週間投獄。 |
1795年 | 1795年憲法が制定され、総裁政府が成立。国民公会は解散。 |
1796年 | ナポレオン、ジョセフィーヌと結婚。さらにイタリア遠征軍司令官に。 |
1796年 | アメリカでJ・アダムズが第2代大統領に就任。 |
1798年 | エジプト遠征。しかしアブキール湾海戦では、イギリスのネルソン提督に敗北。 |
1799年 | ナポレオン、総裁政府を廃し統領政府を発足させ、第一統領に。 |
1800年 | アメリカでジェファソンが第3代大統領に就任。 |
1800年 | (日本)伊能忠敬が、日本全図作成のため測量を開始する。 |
1801年 | イギリスがアイルランドを併合。 |
1804年 | ナポレオン、皇帝に。 |
1805年 | フランス、トラファルガー沖の戦いでイギリスに敗北。しかしアウステルリッツの戦いでオーストリア、ロシア連合軍を大破。また、共和暦を廃止しグレゴリウス暦に戻す。 |
1806年 | 神聖ローマ帝国が崩壊する。 |
1808年 | スペイン独立戦争勃発(〜1814年) |
1812年 | ナポレオン、ロシア遠征に失敗。 |
1814年 | ナポレオン、退位に同意しエルバ島に流される。ルイ18世による王政復古。ウィーン会議が開かれる。 |
1814年 | (イギリス)スティーブンソン、蒸気機関車を開発。 |
1815年 | ナポレオン、エルバ島よりパリへ帰還。しかし、ワールテローの戦いで敗北し、セント・ヘレナ島に流刑。 |
1816年 | アルゼンチンが独立宣言。 |
1821年 | ペルーが独立宣言。翌年にはブラジル帝国が成立。 |
1821年 | ナポレオン、胃ガンで死去する。 |
○総裁政府
さて、1795年になると国民公会は再び制限選挙制を復活させた新憲法を公布。こんなにコロコロと憲法が変わってしまうのは、今の日本では考えられませんが(笑)、ともあれ議会もさらに上下2院の立法府へと改組。そして、国民公会の議員であったバラスを中心に5人の総裁からなる行政府が樹立されました。これを、総裁政府といいます。
ところが、これで騒動が鎮まるわけがない。
亡命していた貴族や王党派は、「かつての栄光を!」と暗躍しますし、庶民の生活がそう簡単に良くなるはずもなく不満が蓄積。さらに1796年5月にはバブーフを指導者とする一派が「私有財産廃止!」と主張し、政府転覆を計画するも未遂に終わり、ジャコバン派の残党と共に処刑されています。
こんな状況ですから、人々は混乱を鎮めてくれる強力な指導者を待望します。
そこで一躍人気を得たのが、あのナポレオン・ボナパルトです。
ナポレオンの肖像画
アムステルダム国立美術館所蔵。
ジェラード男爵フランク・パスカル・サイモン(1770〜1837年)による1805〜15年の作品
○結婚とエジプト遠征
さて、この人物は何者か。彼はコルシカ島という、イタリア半島の西、まあ、フランス半島の南に位置する島の貴族の出身で本名はコルシカ語でナポレオーネ・ブオナパルテ。父親は貧しい裁判官だったそうです。また、コルシカ島は、ナポレオンが生まれる前年、イタリア半島のジェノヴァ共和国からフランス王国が買収した島で、独立運動が繰り広げられますが(だから、ジェノヴァは「これは経営できない」と手放した)、ナポレオンはフランス国民としての道を選んでいます。
でまあ、若きナポレオンはフランス本土に渡って軍人となり、さらに革命軍に身を投じます。気さくな性格から「ちびの伍長」として評判で、さらに数多くの英雄達の伝記や戦術、フランスの地図を頭に叩き込んでいたことから戦争も強い。数々の作戦で大手柄を建て、なんと24歳で少将に昇進。
1794年にはロベスピエール派として捕まり、2週間ほど投獄されます。釈放されると、王党派の鎮圧に活躍し、バラスを中心とする総裁政府の信頼を勝ち取ります。実は、ロベスピエールはナポレオンをこれから重用しようとしていた寸前だったので、あと少しロベスピエール失脚が遅ければ、ナポレオンは死刑になっていたかも知れないとか・・・。
1796年には、生涯愛することになるジョセフィーヌ・ド・ボーアルネと結婚。
彼女は未亡人で、バラス総裁と「親密な仲」、まあ愛人だったんでしょうがナポレオンに譲られました。そのナポレオンと来たら、この新妻に、とにかく甘えます!なんと、寝る前に彼女に本を読んでもらわなければならない。もっとも後に、子供がなかなか出来なかったこともあり、さらに身分に箔を付けることも目的として、彼女と離婚して、マリー・アントアネットの親戚であるオーストリアの皇女マリー・ルイーズと結婚することにするのですが、それでもジョセフィーヌの家にしょっちゅう訪れているほどです。
・・・もっとも、ジョセフィーヌの方はナポレオンが遠征している時に浮気を楽しんでいたようですけど。
と、少し余談が入りましたが、同年、ナポレオンはイタリア派遣軍司令官に任命され、その中でオーストリア軍を大いに撃破し名声がUP! さらに1798年、ナポレオンはエジプトにまで遠征。これは、イギリスと、その植民地であるインドの分断を図り、交通の揺曳であるエジプトを確保しようというもの。ピラミッドを前にして
「兵士らよ、このピラミッドの上から4000年の歴史が諸君を見下ろしている」
と演説し、兵士達を鼓舞したのは有名な話ですね。
さらにまた余談で申し訳ない。
この遠征時の途中、ナポレオン軍はナイル河口のロゼッタ村に駐屯したのですが、ここで1人の兵士が黒い玄武岩の石碑を発見します。「隊長!不思議な文字が書かれた石碑があります!」とでも報告を受けた旅団長プーシャール大尉は、「これは興味深い。ぜひナポレオン様に報告せねば」とし、後に「ロゼッタストーン」と命名が公にされました。
ちなみに高さ114cm、幅72cm、厚さ28cm、重さ762kgだったそうです。そして文字は三層に別れ、上から「ヒエログリフ」、「デモティック」および「ギリシャ文字」の順に文字が刻まれていました。
もっとも、ギリシャ文字は解るんだけど、その他はいったい何が書いてあるのかが解らず、解読はシャンポリオンが1822年に行うまでお預けとなります。しかしこの発見によって、古代のエジプト文字が解り、エジプト学が大きく発展していくのです。
○イギリスのアイルランド併合
それから、さらに余談。この時期、フランスが支援の約束をしたため、アイルランドでイギリスに対する反乱が起こっていました。そこで、イギリスの小ピット首相(1759〜1806年)は、アイルランド合同法を発布し、これをイギリスに併合しました。ただし、アイルランドはイギリスと違ってカトリック教徒が多かったので、彼らカトリック教徒にも平等な政治的権利を保証することで、円滑に併合を進めようとします。
しかし、国王のジョージ3世は「そんなの、いや」
と、強く反対したため、小ピットは首相を辞任しました。
○クーデターで権力掌握
さて、エジプトを占領したナポレオンでしたが、これがなかなか上手くいかない。本人としては、なるべくエジプトの人々に合った形で政治を行ったのですが、しかしエジプトの人々は戦争で疲弊しており、この降って湧いて登場した新しい統治者に対して反乱を起こします。そこでナポレオン、エジプトは部下に任せて
「フランスにおける私の名声も上がった。役立たずの総裁政府を終焉させ、私が権力を握ろう」
と、フランスへ戻り、1799年11月9日、総裁の1人シエイエスの協力で議会を封鎖。反対派の議員を追い出し、総裁政府を終了させます。そして11月11日、味方の議員達の指名でナポレオン、シエイエス、デュコを統領とする統領政府を誕生させました。ですが、シエイエスと政策面などで意見が一致せず、ナポレオンは非常に不満。ならば、奴を排除してしまおう。
そこで、デュコ、タレーラン(1754〜1838年 外務大臣として活躍)、フーシェ(フランス警察の基礎を造る)、カンバセレスらと協力し、12月13日に新憲法を採択。この中で、10年の行政権を持つ3人の統領を置き、それはナポレオン、カンバセレス、ルブランとする、ただし最終的な決定は第一統領であるナポレオンが握る、という形にしました。フランスの人々も、ナポレオンなら上手くやってくれるはずだ、と期待していました。
事実、こうして権力基盤を固めつつあったナポレオンは1800年、第2次イタリア遠征を行い、「まさかここを通るまい」という敵の裏をかき、冬のアルプス越えを実施。闘いは困難を極めましたが、オーストリア軍を大いに撃ち破っています。そして、この時のナポレオンの勇姿(ナポレオンが馬に乗って手を挙げる、あの絵)をジャック・ルイ・ダヴィドが描き、ナポレオンを代表する絵画となっています。
そして、1801年にオーストリアとリュネビル条約、ロシアとパリ条約、イギリスとアミアン条約を結び、ようやく戦争に終止符を打つことが出来ました。さらに、キリスト教否定で犬猿の仲となっていたローマ教会とも政教条約(コンコルダ)を結び和解しました。これによってキリスト教(カトリック)が一部を除いて各地で復活し、次第に人々はもとの生活に戻っていくことになります。これは、精神のよりどころがなかった人々にとって大きな安心となりました(ただし、従来と違って信仰の自由が認められ、プロテスタントやユダヤ教も保護されていきます)。
それから
・地方を県で分割し、県知事はナポレオンが選ぶ。その下に置く市町村や郡も同様に長をナポレオンが選ぶ
(彼らにナポレオンへ地方の実情の報告をさせることで、ナポレオンに情報が集まるようにする)
・フランス銀行、証券取引所、会計検査院の設立
・高等学校、帝国大学の設立
・工業博覧会の実施
・民法や刑法、商法をはじめとする様々な法律を体系化して編纂させ、公布(いわゆるナポレオン法典)。
(私的所有権=オレの物はオレの物 の原則を確立。また、それまで曖昧だったのがスッキリとまとまり、
これは日本を含めて世界中に参考とされる民法となる)
・社会的に高い地位にあると思われる職業には制服の導入(制服が与えられなかった職業からは不満の声も)
・迅速な情報伝達と、警察活動の円滑さを充実させるためにテレグラフ網をパリを中心として東西、南北に敷設。
これは、手動で腕木をうごかして信号をおくるシグナルが数キロおきに立てることで、暗号文が伝達される仕組み。
・パリを世界一の都市にする、との掛け声の下で大規模な都市計画。
街の番地を解りやすく表示したり、噴水や広場などを整備していく。
など、実に様々な施策を意欲的に行っていきます。
フランスはナポレオンと、その手足となる知事の下で、パリを中心とした中央集権体制が確立していきます。また、フランス銀行の整備や法律の整備などは、いわゆる資本主義社会に適合したものでフランス発展の基礎となります。