第50回 ヴィクトリア女王時代(1)発明品とアヘン戦争

○長すぎの今回の年表

1832年 イギリスで第1次選挙法改正が成立。
1833年 イギリスで帝国内における奴隷制が廃止。また、工場法が成立。
1837年 (日本)大塩平八郎の乱。
1837年 イギリスでヴィクトリア女王が即位。
1840年 イギリス、中国とアヘン戦争を仕掛けて勝利。1842年には香港を獲得。
1889〜97年 アメリカ合衆国初代大統領にワシントンが選ばれ、統治が行われる。
1845年 アイルランドで大飢饉が起こる。
1848年 マルクスとエンゲルスが、「共産党宣言」を発表。
ウィーンで3月革命が起こり、メッテルニヒが失脚。
フランスではルイ・ナポレオンが大統領選に当選。のちに帝政へ移行し、ナポレオン3世となる。
1849年 ローマ共和国が成立。しかし、フランス軍によって崩壊。
1851年 イギリスで第一回万国博覧会が開催。
1851年 (中国) 清で太平天国の乱が勃発。
1852年 (南アフリカ) ボーア人(オランダ系移民)がトランスヴァール共和国を建設。
1853年 (日本) アメリカの使節としてペリーが浦賀に来航。
1853年 ロシアVSトルコの、クリミア戦争が勃発。翌年、フランス・イギリスがロシアに宣戦布告。
1857年 大英帝国統治下のインドでセポイの反乱が起こる。
1859年 (エジプト) スエズ運河が建設開始。
1861年 プロイセンでヴィルヘルム1世が即位。
サルディーニャ王国がイタリア半島を統一し、イタリア王国が成立。
1863年 ロンドンで世界最初の地下鉄が誕生。
1863年 フランスがカンボジアを保護国化。
1866年 ノーベルがダイナマイトを発明
1868年 (日本) 明治維新。江戸幕府が崩壊し、明治政府による国家運営が始まる。
1870年 ナポレオン3世、プロイセンとの戦争に敗北し降伏。フランスは共和制へ。
1871年 プロイセン王ヴィルヘルム1世、ドイツ皇帝として戴冠。ドイツ帝国が成立。
1877年 ヴィクトリア女王、インドで女帝宣言。
1894年 朝鮮で東学党の乱。さらに日清戦争が勃発し、日本が勝利。
1900年 清で外国人排斥を訴えた義和団の乱が発生し、列強各国が鎮圧。
1901年 ヴィクトリア女王没。

○時代を変えた発明品たち

 年表が凄まじいことになっていますが、それほど19世紀は20世紀と並んで世界各地が、それぞれ関連しながらダイナミックに歴史が動いていったということが表れていると思います。

 特に、今回と次回でお話しする内容の間に、世界各地の政治的な出来事では
 1.フランスのナポレオン3世が活躍し、没落していったことと、
 2.イタリア王国とドイツ帝国が成立(前者は1861年、後者は1871年)
 3.アメリカから日本にペリーが来航して日本が開国、ほどなく江戸幕府が崩壊し明治新政府が誕生していったこと
 4.そのアメリカでは、リンカーン大統領時代に南北戦争が勃発する(1861〜65年)
が発生していますので、これは念頭に置いて頂ければ、と思います。

 さて、今回と次回ではイギリスに焦点を当てつつ、まずは、この時代にヨーロッパとアメリカで誕生した、様々な発明品を紹介していきたいと思います。例えば、こんなのが有名ですね。
 ・メンデル遺伝の法則を発表(1865年)、
 ・スウェーデンの化学者、アルフレッド・ノーベルがダイナマイトを発明(1866年)。安全に持ち運びできるのが特徴。
 ・ベル電話機を発明(1876年)、エジソンが蓄電器(1877年)、電灯を発明(1879年)
 ・イギリス在住のアメリカ人、ハイラム・マクシムが現代的構造の機関銃を発明し(1884年)、瞬く間に普及。
 ・フランスのフェルディナン・カレ(1824〜1900年)と、シャルル・テリエ(1828〜1913年)冷凍技術を開発。

 これらの発明品たちは、我々の生活を良くも悪くも大きく変えていきます。ダイナマイトと機関銃は、その最たるものでしょうか。マクシムは、自社の機関銃を売りまくり、ヨーロッパ各国は抵抗する植民地の人たちを虐殺したり、のちに第1次世界大戦で多くの死者を出すキッカケを作り出しますが、ノーベル(1833〜96年)の方はダイナマイトが殺戮の道具としても使われることに心を痛め、また、子供がいなかったこともあり、死にあたって有名な遺言を残します。

 それは、約900万ドルという、莫大な遺産のほぼ全額を基金とし、物理、化学、医学・生理学、文学、世界平和の5部門、それぞれで寄与した人たちを毎年表彰してほしい、というものでした。これによって、ノーベル財団が設立され、色々と受賞を巡って激しい応酬があるものの、ノーベルの命日である12月10日に、ノーベル賞の授与式が行われています。
 *ノーベル経済学賞は、1969年より授与開始。

 それから、電気の本格的な利用もこの頃からで、1879年にはドイツのE.W.ジーメンスが電気機関車の運転に成功し、さらに1881年にはベルリンで、初の電車(路面電車)の運転が開始されています。ちなみに、年表にあります通り、1863年、ロンドンのビショップスロード〜ファリンドンストリート間の約6kmで地下鉄が開業しています。ただし、当初は蒸気機関車による運転だったため、それはもうトンネルの中が黒煙で凄いことになったとか・・・。また、電車による地下鉄が誕生したのは1890年のことです。



ヴィクトリア駅(ロンドン)
ロンドンのターミナル駅の1つ、ヴィクトリア駅。1851年に建てられたもので、壮麗な外観を持ちます。

セント・パンラス駅(ロンドン)
ロンドンのターミナル駅の1つ、ヴィクトリア駅。
宮殿のようなこの建築は、ミッドランド鉄道のターミナルとして1868年に建てられたものです。

開業時の地下鉄(再現)  ロンドンの地下鉄は1863年1月9日に開業し、翌日から一般客を乗せるようになりました。運行会社は「メトロポリタン鉄道」という名前で、東京メトロ、ソウルメトロやパリメトロ等を始めとする世界各国で地下鉄の俗称となる「メトロ」の語源となっています。  開業当時の路線はパディントンからキングズ・クロスを経由してファリンドンを結ぶもので、現在も3系統が運行される大動脈に変わりはありません。写真は2013年1月に地下鉄開業150周年を記念して運転されたもので、1898年に製造されたメトロポリタン鉄道 Eクラス1号機や、1892年製の地下鉄用の客車等を使用しています。 (撮影:秩父路号)
 また、当然のことながら鉄道そのものの建設がヨーロッパと、アメリカ、イギリスの植民地だったインド等で急速に推進されます。その代表は、アメリカの大陸横断鉄道たち(大西洋岸から太平洋岸までつなぐ)でしょうか。それから、海運も発達し、汽船と鉄鋼船が世界の海で運転されていきます。

 それから、急速に都市化が進んだロンドンやパリでは、衛生状態の悪化が死活問題でした。
 人々が出すゴミ、屎尿・・・つまり、オシッコとかウンコとか、こうした物の垂れ流しが、悪臭漂う街を形成し、特にロンドンではテムズ川に捨てるものですから、川の汚染は酷いもので、これに伴いコレラが大流行し、多くの人が命を落としました。そこでようやく、水洗便所の普及と、上下水道の整備が少しずつ進んでいきます。

 上水道は、私たちへの水の供給。下水道は、私たちが水を使ってゴミや、屎尿を流すところですね。



ナショナル・ギャラリー  ロンドンのトラファルガー広場に位置する美術館。1824年に設立され、現在の建物はウィリアム・ウィルキンスの設計で、1832年から1838年にかけて造られたものを、次第に増築していったもの。 主に13世紀半ば〜1900年までの作品を展示しています。
 あと、この時代、男性ファッションの中心地はイギリスでした。
 1830年代からネクタイという言葉がネッククロースに代わって普及しています。 そして、フランス革命後に一般化した「ジャケット」と「ズボン」を、同じ生地で作る背広(スーツ)が、(元々は、なんと略装・スポーツ服だったのですが)1860年代より一般的な格好として定着し、これが1890年代にヨーロッパ、さらに20世紀には全世界へ普及していきます。

 御陰様で、湿度の高い日本ではえらい迷惑・・・。
 ネクタイ業界には申し訳ないですが、クールビズ、頑張れ!(笑)。

 それから、クジラについて。
 都市化が進むと、夜の街が非常に物騒になっていきます。そこで、街灯を積極的につけようではないか、ということになったのですが、そのためにロウソク等、照明の原料として油が必要になったのですね。他にも、機械の潤滑油、石けん、ペンキの原料、さらにはダイナマイトにも必要だった。そこで、クジラを捕まえて、そこから油をとってしまえ! と、ヨーロッパ人、アメリカ人たちは世界中に進出してクジラを乱獲。

 しまいには、日本にまでやってきて、(目的の1つとして)「補給基地として使いたいから開国しろ」と、なったのはご周知の通りだと思います。また、ヨーロッパ人たちは鯨の肉には見向きもせず、油さえとれれば後は廃棄処分。あげくに、石油や代替品の普及でクジラが不要になると、「これからは鯨を保護しよう。可愛いから。日本人もクジラを穫らないように」と、実に凄い論理を堂々と展開・・・。

 このほか、中世以来一般的だった、足を使って点を取り合うフットボールから、サッカーラグビーいう競技が正式に誕生したのもこの頃のこと。1863年に、イングラインド・フットボール協会が組織化され、アソシエーション・フットボール、すなわち、アソシエーションassociationのassoc に由来するサッカーsoccerのルールが制定されていきました。一方、主に手を使って競技するスポーツはラグビーとして、1871年に「ラグビー・フットボール・ユニオン」が組織され、こちらも正式にルールが制定されていきます。

 おっと、これだけで独立した原稿になりそうなぐらい長くなりました。
 それでは、こんな色々な変化があった、ヴィクトリア女王時代のイギリスを見ていきましょう!
 ・・・でも、その前に話は少し前の時代で。

○保守党と自由党の二大政権時代

 さてイギリスではナポレオン戦争が終結したのち、深刻な不況に見舞われます。そこで政権を担当していたトーリー党は地主の利益を保護したり、出版の自由を制限し、少々強引な政治権力を行使するなどの荒治療で、何とかこれを乗り切ります。そして、リバプール首相&カニング外務大臣時代にギリシャ独立戦争支援、カトリック教徒解放(1829年)などの政策が行われ、1830年までにカトリック教徒でも公職に就けるようになります。

 ところが、こうした改革をめぐってトーリー党内部で分裂し、総選挙でホイッグ党に政権が移ってしまいます。そして、トーリー党は保守党、ホイッグ党は自由党と改称し、引き続きイギリスでは二大政党による政党政治が進んでいきました。こうした中で、1832年に選挙権と議席を拡大した第1次選挙法改正が行われます。また、行き過ぎた資本主義を修正するべく、1833年に工場法が制定。これは、女性と子供の労働時間を法律で制限し、保護しようというのが狙いです。ほぼ同時に、イギリス帝国内での奴隷制度を廃止します。

 また、1835年には都市自治体法が制定され、市議会が設置。地方のことは地方で、という地方自治がスタート。
 さらに、これまで教会が管理してきた出生、死没、結婚の登録を行政が行えるようにします。

 一方で国民の間では1838年から1850年にかけてチャーティスト運動、すなわち労働者階級による普通選挙権要求をメインとした人民憲章をメインテーマにした運動が展開され、最終的には要求の殆どが認められていくことになります。それから、1839年には「自由貿易を推進しろ! イギリスに輸入される穀物に関税をかける穀物法を廃止しろ!」と、コブデン(1804〜65年)ブライト(1811〜99年)らが反穀物法同盟を結成。

 産業資本家階級の支援を受けたコブテンは1841年に、ブライトは1843年に下院議員に当選し、46年に穀物法撤廃に成功しています。資本家としては、産地がどこであれ、良い物を安く売れればいいわけですね。自由に貿易が出来ることは重要なことだったのです。

 ちなみに、コブテン、ブライトの考えでは貿易を脅かす戦争なんてもってのほか。国際平和が一番です。
 ブライトに到っては、植民地の拡大にさえ反対しました。
 そして両人は、今回のお話に出てくるパーマストン外相の好戦的な対外政策をはじめ、数多くの戦争に反対し、国民からは「臆病者」として一時は議席を失いましたが、その後も自由貿易推進に尽力しています。



王立裁判所
1862年に完成した、ロンドンにある王立裁判所。
ゴシック様式の壮麗な建築で、東西に140メートル、南北に140メートル、高さ75メートルという規模。

○ヴィクトリア女王

 さてさて、教科書では軽く扱われるコブテンとブライトに注目したため、なんだかテーマが何か不明になってしまいましたが(笑)、今回と次回のメインテーマはヴィクトリア女王(1819〜 位1837〜1901年)治世下のイギリスを見ていくこと。



ヴィクトリア女王
ロンドンのバッキンガム宮殿の前にて。
 エリザベス女王と並んで特に有名な女王で、ちょっと生い立ちを紹介しますと、彼女はイギリス国王ジョージ3世の4男エドワード(ケント公)の娘です。

 母親は現在のドイツにある、ザクセン・コーブルクのザーツフェルト公の娘で、父親が直ぐに亡くなってしまったため、ドイツ文化の影響が濃い、母親とその周りの人達の教育で育ちました。・・・と、ついでですから、複雑なイギリス王室の系譜についてみておきましょう。さて、どの国王の時に、どんな出来事があったか覚えていますか?(笑)。


 さて、1837年、ヴィクトリアは伯父のジョージ4世が跡継ぎ無く死去したことに伴い、18歳で即位します。
 さらに1840年、従兄弟のアルバート(ザクセン・コーブルク出身)と結婚します。そして、国王は君臨すれども統治せず・・・が原則でしたが、ヴィクトリア女王は色々と注文を付けます。そもそも、即位時には自由党びいきを公言していましたが、結婚後は夫の影響でビール首相率いる保守党を支持。

 さらに1850年、自由党政権時代のパーマストン外相と外交政策で対立し、「外交政策は私の言うことを聞け!」と散々に文句を言うのですが、パーマストンはこれを無視。ついに、ラッセル首相はパーマストンを解任することにしました。と、このように色々と政治に口を出した女王です。

 ちなみに、夫のアルバートとの仲の良さは特に有名です。
 それまでイギリス王室といえば、というか、今もそれに近いですけど、不倫、浮気などのスキャンダル続き。そのような中で、この夫婦は非常に夫婦仲が良く、子供も数多く誕生。そしてアルバートは妻の仕事が円滑に進むよう、早起きして膨大な書類、資料を読んで整理し、それを妻に説明していた他、1851年には世界初の国際的博覧会である、ロンドン万国博覧会を主宰し、愛知万博へと続く大成功を納めます。

 このように、アルバートは猛烈な仕事熱心ぶりを発揮しますが、1861年に42歳の若さで死去。
 ヴィクトリア女王の悲しみたるや、相当なもので、10年にわたって喪に服してしまいました。




ヴィクトリア&アルバート博物館  1851年に開催された世界初の万国博覧会(大博覧会)の出典作品を展示するための工業製品博物館を母体に、ヴィクトリア女王と夫のアルバート公が、ロンドンへ美術工芸品専門の博物館の建設に着手。1859年にサウス・ケンジントオン博物館としてオープンし、1899年に故人となったアルバート公の偉業をたたえ、現在の名前になりました。

アルバート記念碑
ロンドンにあるハイド・パークという王立公園の南端にヴィクトリア女王が1872年に建立したもの。
夫の死を悼んでここまでやってしまうとは・・・。

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