第55回 近現代ヴェトナムとフランス

○阮氏による西山朝

 今回は1858〜67年のインドシナ出兵を中心に、ヴェトナム戦争前夜まで一気に見てしまうという、実に無謀なページです。どうも、途中で切りづらくて・・・。 というわけで、まずは近代ヴェトナムの歴史を見ておきましょう。

 まず18世紀後半、当時ヴェトナムを支配していたのは黎朝と呼ばれる政権でした。この黎朝、その成立時は中国の明の支配からの脱却に成功した輝かしい政権だったのですが、この時代にはハノイを中心とする北部を鄭(チン)氏が、フエを中心とする中部と南部を「中部」阮(クアンナム・グエン)氏が事実上支配し、黎朝は名目的な存在。ヴェトナムは分裂状態にありました。

 これに対し、1771年。
 ヴェトナム中部クイニョンにある西山(タイソン)村で阮文岳(グエン・バン・ニャク)、阮文呂(グエン・バン・ルー)、阮文恵(グエン・バン・フエ)の3兄弟を中心とした反乱が勃発しました。これを、西山(タイソン)党の乱といいます。この反乱、もの凄く強力で1776年に、阮三兄弟と同じ名字の王朝である「中部」阮(クアンナム・グエン)氏政権を打倒。さらに、1786年には鄭政権を滅ぼし、ヴェトナムを統一します。

 そして、阮文岳(グエン・バン・ニャク)をクイニョンを首都とする中央皇帝とし、阮文呂(グエン・バン・ルー)を東定王(首都:ハノイ)、阮文恵(グエン・バン・フエ)を北平王(首都:フエ)とする三頭体制が成立しました。これを、西山(タイソン)朝といいます。でも、もうこの段階で予想されている読者もいると思いますが、こんな体制、仲良く末永く続くことは非常に希です。

 キッカケとなったのは、「そんな支配は認めないぞ!」と、名目上の存在となっていた黎朝の皇帝昭統(ティエウトン)帝が、清に援助を要請したこと。ところが、救援にやってきた清軍が、北平王から光中(クアンチュン)帝と名乗っていた阮文恵(グエン・バン・フエ)にコテンパンにやられてしまったのです。このため、清は阮文恵を安南王に任命し、ヴェトナムの支配を認めました。

 いやいや、なんだそれは!
 と、当然他の兄弟は怒りますわね。だいたい、阮文恵はちゃっかり皇帝を名乗っているではありませんか。こうして、三兄弟で争いが起こり、西山朝は弱体化していきます。おまけに、阮文恵が亡くなったものですから、益々話がややこしくなる。これを「チャ〜ンス!」と見たのが、「中部」阮(クアンナム・グエン)氏、生き残りの阮福映(グエン・フック・アイン 1762〜1820年)です。う〜む、阮氏だらけだ・・・。

○フランスによる介入はじまり

 そして、ここで出てくるのがフランス義勇軍ってわけだ。
 阮福映に味方して、ヴェトナムでキリスト教を布教を認めさせよう、という魂胆で、義勇軍を組織したのは何と宣教師のピニョー・ド・ベーヌ(1741〜99年)という人物。軍隊を組織って・・・それでも聖職者ですか(笑)。ともあれ、彼らの働きもあって西山朝は滅亡し、阮福映は嘉隆(ザ・ロン)帝(位1806〜20年)として即位しました。

 さあ、キリスト教の布教を認めて下さいな!
 ・・・ところが、そんなことをしてしまったら、いつしかフランスの支配下に入ってしまうではないか。というわけで監視をし続け、歴代皇帝もこの政策を踏襲。1830年には、キリスト教関係者を処刑するという荒技に打って出ます。これがフランスで大問題となり、さらにのちにはスペイン人宣教師も殺害されたことから「ヴェトナムに制裁を!」との声が高まります。


 当然、この国民の声に上手に応えれば、政治家としてはポイントアップでしょう。そこで1858年、ナポレオン3世はスペインと連合艦隊を結成し、ヴェトナムに派遣しました。当然戦争が勃発し、厳しい抵抗に遭いますが1862年に第1次サイゴン条約を締結。サイゴンを中心した地域である、コーチシナ東部を割譲させ、その後も1863年にカンボジア(クメール王国)のクメール王国のノロドム王と保護条約を結び保護国化。

 さらに1867年にコーチシナ西部を支配。
 この動きに対して、ヴェトナムの農民達は黒旗軍を組織し、ねばり強い抵抗を続けた他、1884〜85年には清が、ヴェトナムの覇権をめぐってフランスに戦いを挑みますが、これはフランスが勝利(清仏戦争)。1885年にはヴェトナム全域を保護国化し、この辺り一帯をフランス領インドシナ連邦として統治開始(ハノイに総督府を置く)。1893年にはラオスも編入しています。また、この時代、フランスはアルジェリア、チュニジア、セネガル、マダガスカル、ニューカレドニア、モロッコなどを植民地化し、世界各地に権益を拡大していくことになります。

 さて、ヴェトナムとその周辺を支配したフランスは、当然自分達が植民地支配をしやすいように、ヨーロッパの近代的な設備を次々と投入していきます。この結果、インドシナ連邦内では商業や工業が発展。と、これだけを見れば「なんだ、悪くないじゃないか」という雰囲気ですが、だからといって一般のヴェトナム人やカンボジア人、ラオス人の生活が良くなったわけじゃあございません。

 むしろ、低賃金で働かされたり、重税に苦しむなど、まあ人によって色々とは思いますが、大多数の人々の不満が高まっていました。このあたり、日本の朝鮮半島支配と似ているかもしれませんね(同じにするなと日韓双方から叩かれたりして)。

 そこで幾つかフランスに対する反抗が行われますがヴェトナムの場合、1930年、フランス留学経験があり、そこで社会主義・共産主義を学んだホー・チミンがインドシナ共産党を組織したのが大きなインパクトでした。折しも、日本軍のインドシナ進駐によって、この地域のフランス支配が弱体化。さらにヴェトミン(ヴェトナム独立同盟会)を結成し、日本敗退後の蜂起を進めます。

 そして1945年に日本がヴェトナムから撤退すると、ホーチミン達はベトナム民主共和国を樹立するのです。
 ところが、強いフランスを目指す、同国のド・ゴール大統領は「独立など認めん!」と、1949年6月に、グエン朝最後の皇帝バオダイ帝を元首とする「ベトナム国」を南部に樹立。これに対し、ヴェトミン側はゲリラ戦で対抗。次第にフランス側を追いつめていき和平の道が模索されます。

 こうして1954年5月。ジュネーブ国際会議が開催され、ベトナムは北緯17度線で南北に分割。北半分はホーチミンを中心とした、社会主義国家となるベトナム民主共和国(北ベトナム)が、南半分はバオダイのベトナム国が統治することになり、2年後に統一のための選挙を行うことで決着しました。

 こうして、フランスとヴェトナムの対立はようやく終結。
 ところが、「このままではヴェトナムが社会主義・共産主義国家になってしまう」と恐れたアメリカの支援を受けたゴー・ディン・ジェムが、バオダイ政権を倒したことから、アメリカVS北ヴェトナムの、ヴェトナム戦争へとつながっていくのです。

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