第17回 1965年〜79年(7):統合に向かう西ヨーロッパ
○はじめに
現在のヨーロッパ連合(EU)の結成までの、ヨーロッパ統合に向けた動きについては、これまでのページであまり扱っていませんでしたが、今回の対象である1965年よりも以前の動きも含めて、一気に御紹介していきたいと思います。また、1965年〜79年のフランス、ポルトガル、スペインの動きも合わせて御紹介しましょう。○欧州石炭鉄鋼共同体の発足
ヨーロッパは一つ。
こう考える人は古来からいましたが、直接的に今のEUに結びつく動きが起こったのは1946年9月19日。イギリスのウィンストン・チャーチル元首相(1874〜1965年)が、スイスのチューリッヒ開かれた会議ででヨーロッパ合衆国構想を提唱したことです。
これは実現には繋がりませんでしたが、やはり実利的な話になると話は早い。1948年、アメリカが西側ヨーロッパを援助するマーシャルプランを実施する受け皿として、欧州経済協力機構(OEEC)が作られます。これが欧州統合の第一歩といえるでしょう。しかし、冷戦の幕開けでヨーロッパは東西に分裂し、さらに西ドイツとフランスは仲が悪い。
そこで1950年5月9日、フランスのロベール・シューマン外相とジャン・モネ(フランスの実業家、1888〜1979年)は、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)の創設を提唱。これは、「西ドイツとフランスの石炭業や鉄鋼業を管理する共同機構を設立し、この機構に加盟した国で共同管理しよう!」という驚きのプランでした。
資源の共同管理が出来れば対立も解消していくだろう、というこの理想。実際、ヨーロッパに強力な資源管理組織を作ることは、各国にとっても魅力的な話だったようで、フランスはもちろん、西ドイツ、ベルギー、イタリア、ルクセンブルグ、オランダも賛同し、ECSCが発足。ライン川流域の石炭、鉄鋼の産業を6カ国みんなで利用し、利益を出すことになりました。
○次は安全保障組織だ!
それから同じく1950年、フランスの首相ルネ・プレヴァン(1901〜93年)が欧州防衛共同体構想を提唱します。これは、当時、朝鮮戦争など、東側陣営との戦いを見た欧州諸国が、超国家的な欧州軍を設立し、この中にドイツ軍を取り込むことにより、ドイツ軍の驚異も取り除きつつ東側から欧州を守ろうと考えたのです。ですが、主権が制限されると言うことで発案したはずのフランスが否決(フランスの主権制限に反対するド・ゴール派が原因)。
結局、以前見たとおり安全保障機構として北大西洋条約機構(NATO)が結成されることになりました。また、農業共同体構想もありましたが、こちらも実現には結びつきませんでした。
○さらなる統合組織へ
しかし、経済的統合への道はさらに進んでいきます。1955年1月、ECSCの加盟6カ国による外相会議が「メッシーナ宣言」を採択。欧州経済共同体(EEC)および欧州原子力共同体(EAEC=Euratom)の創設を決定 。1957年3月に、この6カ国でEEC設立条約(第1ローマ条約)およびEAEC設立条約(第2ローマ条約)調印が行われ、両組織が発足しました。そして、加盟国内の貿易障壁撤廃や域外諸国からの輸入品に対する共通関税の設定、そして農業を管理、援助する共通農業政策を推進します。
一方、イギリスなどEEC以外の西欧諸国7カ国(オーストリア、デンマーク、イギリス、ノルウェー、ポルトガル、スウェーデン、スイス)はEFTA(欧州自由貿易連合)を結成します。こちらも、密接な経済協力の促進を目的とし、1967年1月までに農産物を除くすべての製品に対する域内関税を撤廃します。
そんな中、イギリスはEECに加盟させてくれ!と申請をします。
しかし、イギリスの加盟についてはフランスのド・ゴール大統領が強烈に反対し実現しませんでした。なにしろ、イギリスのバックにはアメリカがついています。このため、フランスの影響力保持のためには、イギリスは入れたくありませんでした。そして、EECは全会一致がルールだったので、フランスが反対すれば、イギリスは加盟できませんでした。
○自主外交を展開するド・ゴール大統領
ここでちょっと横道にそれて、ド・ゴール大統領の外交について見ていきましょう。1966年、フランスのシャルル・ド・ゴールはアメリカとは一線を画した自主外交をめざし、NATO(北大西洋条約機構)からフランスを脱退させるとともに、フランス国内に駐留する外国軍を1年以内に退去するよう求めました。これを受けてNATOは本部をパリからベルギーの首都ブリュッセルに移します。
さらに1960年には、イギリス、ソ連に次いで核実験に成功し、1968年に水爆を完成させ、核保有国に。
また、1967年7月24日にはカナダで開催されたモントリオール万国博覧会を訪問したド・ゴールは「自由ケベック万歳!」と発言。モントリオールはケベック州最大の都市で、そしてケベック州はフランス系の住民が圧倒的多数を占め、フランス語のみが公用語となっている地域です。かじ取りを間違えればケベックは独立しかねず、ド・ゴールの発言はカナダとの外交問題に発展しました。
このように強いフランスを目指して、アメリカに対抗する独自の外交政策を目指したド・ゴールですが、1969年に大統領を辞任して政界を引退。国民投票で上院及び地方行政制度の改革案が否決されたことが理由で、翌年に79歳で死亡しました。
シャルル・ド・ゴール国際空港や、フランス海軍の原子力空母「シャルル・ドゴール」など、ド・ゴールの名前は色々な所に付けられ、今なおその名前を耳にする機会は多く、いかにフランス国民に親しまれているかが伺えます。
○ECの誕生
1967年7月、欧州経済共同体(EEC)、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)、欧州原子力共同体(EURATOM)の3組織を柱として、ヨーロッパ共同体(EC)が発足します。そしてECの拡大に消極的だったド・ゴール政権が1969年4月に終わると、次のフランス大統領となったジョルジュ・ポンピドゥー(1911〜1974年)は、さらなるECの組織拡大を図ります。1969年12月にのハーグ首脳会議では、過渡期の完了確認、拡大と深化の方向性が打ち出され、1973年にはイギリス、アイルランド、デンマークがECに加盟します。しかし、1970年代は思ったほどECは深化しませんでした。
例えば1970年、ルクセンブルグ首相の名を取ってウェルナー・プランと名付けられた、経済通貨同盟を段階的に達成するというプランが理事会と委員会に提出されますが、一行に先に進みません。1975年、ベルギー首相チンデマンスは報告書の中でECの現状を痛烈に批判し、直接選挙制度による欧州議会の実現、全会一致という決定の制度の改革を求めました。
統合が加速したのは、1980年代のことでした。まず1981年1月にギリシャがECに加盟します。
さらに1986年1月に、スペインとポルトガルがECに加盟しました。
また1980年代は、1985〜95年にEC(のちEU)の委員長をつとめた、フランスのジャック・ドロール(1925年〜 )の主導によって単一市場化が推進されます。1985年6月には7カ年計画で、ヨーロッパ単一市場を達成することに合意し、さらに1987年に発効した単一ヨーロッパ議定書は、EC域内市場を「物、人、サービス、資本の自由な移動が保障された国境のない領域」と規定し、その完成を1992年末に設定しました。
何だか難しい内容ですが、とにかくEC域内の経済活動がより自由になることを目指したわけです。そして1993年11月1日に、ヨーロッパ連合(EU)が発足するのですが、これについては1990年代のコーナーで御紹介しましょう。
ちなみに、EFTA(欧州自由貿易連合)は、イギリスとデンマークが1973年のEC加盟に伴い脱退。1986年にはポルトガルがEC加盟に伴いEFTAから脱退。一方で、1991年にリヒテンシュタインが加盟。1995年には、オーストリアとスウェーデンとフィンランドがEU加盟に伴いEFTAを脱退。
結局今はどうなのよ、という話ですが、本部をスイスのジュネーヴに置いた上で、アイスランド、ノルウェー、スイス、リヒテンシュタインの4か国が加盟しており、組織は存続しています。
○ポルトガルで独裁政権が崩壊
第2次世界大戦後は、西ヨーロッパはいずれも民主的な国家?・・・いやいや、そんなことはありません。ポルトガルとスペインでは、独裁政権が続いていました。しかし、今回取り扱う1965年〜79年の時代には、相次いで終焉を迎えます。
ポルトガルでは1933年にアントニオ・サラザール(1889〜1970年)が独裁政権を樹立。1968年に事故によって職務不能になると、マルセロ・カエターノ首相(1906〜80年)が独裁政権を引き継ぎ、基本的にサラザール時代の政策を引き継ぎます。その中でも、ギニアをはじめとするアフリカにおける植民地については弾圧政策を続け、反乱鎮圧にポルトガル予算の40%も裂くほど泥沼化させていました。
こうした中、軍部を含めて国民からの厭戦機運が高まり、1974年4月25日、陸軍大尉等が軍事クーデターを決行し、独裁政権を崩壊に導きました。殆ど無欠に近い電撃的なクーデターで、カエターノは、ブラジルへ亡命しました。これを、カーネーション革命といいます。
そして、軍による統治が行われ、社会党勢力VS共産党勢力に絡んだ軍内各派閥による権力闘争もあって政権は不安定さをみせながらも、アフリカの植民地支配を終わらせ、アンゴラ、ギニアなどが独立しました。1976年4月には、新憲法が公布され、総選挙が実施されます。これによって民主化が実現しました。
○スペイン民主化
スペインでは1939年に、フランシスコ・フランコ(1892〜1975年)がスペイン内戦を制してスペイン全土を掌握すると、長い独裁政権の時代に入りました。1946年には国連でスペイン排斥決議が採択されるなど、国際的孤立を深めますが、1950年の朝鮮戦争後は、反共産主義国家として西側諸国と急速に関係を改善し、1955年には国連に復帰します。1960年代はスペインにとって高度経済成長時代に入り、限定的な民主化の動きも見せ始めます。一方、スペイン北東部のバスク、カタルーニャなどの民族運動は激しくなり、中でもETA(バスク祖国と自由)のテロが活発化します。そうした中、フランコは政権を追われることなく、1975年に死去しました。
これに伴い、フランコによって後継者として指名されていたスペイン王家のフアン=カルロス1世(1938年〜 )が国王として即位します。フアン=カルロス1世は、フランコ時代とは一転して、民主化を一気に進め、人々を驚かせました。そして、1977年には41年ぶりに総選挙を実施し、翌年に新憲法が承認されてスペインは立憲君主制へ移行します。
新憲法では国王は儀礼的な役割を追う存在とされ、名実ともに民主化を達成しています。
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