第23回 1980年〜89年(4):東欧の社会主義体制崩壊

○はじめに

 1980年代は、長らく続いた東西冷戦体制がついに崩壊に向かった年代でもありました。
 その契機の1つとなったのが、1985年3月にミハイル・ゴルバチョフ(1931年〜 )がソビエト連邦共産党書記長に就任し、グラスノスチ(情報公開)ペレストロイカ(改革)などの大改革を断行し、ソ連の社会主義体制が大きく変貌する動きを見せ始めたことです。さらにこれまでのように東欧諸国に介入しない姿勢を出し、東欧諸国の国民が共産党などによる一党独裁体制を打破する声を上げたことに対し、軍事介入を行わず、東欧諸国の指導部に対する支援も行いませんでした。

 こうした中、いち早く民主化に向かっていったのがポーランドでした。まずは、ポーランドの動きから見ていきましょう。

〇「連帯」の結成

 1978年にポーランド人のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(1920〜2005年)が誕生し、国民的な精神的支柱となる一方、約10年にわたって政権の座を握っていたエドヴァルト・ギエレク統一労働者党第一書記の失政によって、財政破たんに追い込まれていました。このため、1980年7月に食肉価格の値上げを発表。

 これが労働者たちの怒りを買い、8月には全国的なストライキに広がりました。運動の中心となって活躍したのが、レフ・ヴァウェンサ(1943年〜 )。日本ではワレサとの表記が一般的ですが、ポーランド語の発音からは不正確とのことで、ここでは併記しておきたいと思います。

 さて、ヴァウェンサ(ワレサ)はレーニン記念グダニスク造船所の電気技師だった人物でしたが、1970年代にストライキの中心人物として活躍。その後、レーニン造船所を解雇されていたところを、1980年8月14日に造船所の壁を乗り越えて中に入り、ストライキ委員長に選ばれました。


 (ちなみにグダニスクは、ポーランドの中央北側に位置する、ポーランド最大の港湾都市です。)

 さらに、ヴァウェンサ(ワレサ)は、グダニスク・ソーポト・グジニャ地域の統一ストライキ実行委員長となり、政府に対して自由な労働組合の結成、言論・思想・信条の自由、政治犯の釈放などを要求。ストライキ運動に追い詰められたギエレク政権は8月末、ソ連とも協議の上で、これらを受け入れ統一ストライキ委員会との間でグダニスク協定を調印。一方、統一ストライキ側は反政府行動を控えることに同意しました。

 そして9月、統一ストライキ委員会を核に共産圏初の自主管理労働組合として連帯が結成。議長にはヴァウェンサ(ワレサ)が就任し、ポーランドの人口の4分の1に当たる約950万人が参加する、一大勢力となりました。一方、ギエレクは失脚し、スタニスワフ・カニヤが約1年間、ポーランド統一労働者党第一書記を務めた後、1981年10月からヴォイチェフ・ヤルゼルスキ(1923〜2014年)が党第一書記に就任しました。

 以後、ヴァウェンサ(ワレサ)らはヤルゼルスキと交渉していくことになります。

○ヤルゼルスキ政権との交渉

 さて、ポーランド政府による経済の好転が見えない中、労働者を中心とした民衆の不満は高まり、政府との対立が深刻化します。このため、ヤルゼルスキ政権は1981年12月に戒厳令をだし、連帯の活動を停止させ、ヴァウェンサ(ワレサ)委員長ら指導者たちを次々と逮捕。戦車を街中に投入して、反政府行動を認めない姿勢を見せます。

 戒厳令の一因としては、連帯側が他の共産主義諸国に自主管理労組の結成を呼び掛けており、さらにヤルゼルスキとヴァウェンサ(ワレサ)が和解交渉している中で、ワレサの説得を押し切って、連帯の指導者たちがポーランド統一労働者党の廃止を求める国民投票を求めたこともありました。これはソ連にとって見過ごせる動きではなく、ヤルゼルスキ政権に秩序の回復を命じたという点があります。実際、国境沿いに10万人ものソ連軍が展開していたそうです。

 連帯はその後、地下活動を続け、1983年2月には教皇ヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問し、熱心なカトリック教徒であったヤルゼルスキに対して、直接的な名指しを避けながらも、「人間の顔をした社会主義」を実現するよう強く求めます。そして、同年7月に戒厳令は解除されました。

 一方、ソ連では前述のようにゴルバチョフがソビエト連邦共産党書記長に就任し、ペレストロイカ(改革)グラスノスチ(情報公開)などの大改革を断行し、ソ連の社会主義体制が大きく変貌する動きを見せ、東欧諸国に政治体制を従来のように維持し続けることは困難である、という印象を強く与えることになります。

 これを受けて、1989年2月からヤルゼルスキは、ヴァウェンサ(ワレサ)ら連帯との円卓会議を数度にわたって開催し、上院の新設や下院立候補の制限緩和、大統領制の導入など、連帯側と民主化について合意。

 1989年4月、連帯は合法化され、6月には一部制限付きながら選挙が実施されました。そして連帯が圧勝し、「連帯」出身のタデウシュ・マゾヴィエツキ(1927〜2013年)が首相に就任し、円卓会議での合意に基づき、ヤルゼルスキはポーランドの初代大統領となり、1990年2月まで務めました。後任の大統領には、ヴァウェンサ(ワレサ)が就任しています。

○ハンガリー民主化運動


 ハンガリーでは、1956年のハンガリー事件で、共産党の支配体制に対する民衆の蜂起が弾圧され、ソ連の意向でカーダール・ヤーノシュ(1912〜89年)がハンガリー社会主義労働者党の書記長に就任します。そして、カーダールはソ連の意向に従いながらも、西側諸国との経済関係や文化交流も重視しながら、約30年にわたって政権を維持し続けていました。
(ちなみにハンガリーは日本や中国と同じく、姓が先に来ますので、カーダールが姓です)

 1980年代は経済面で市場原理の導入に踏み切るなど、大胆な改革に手を付けた結果、インフレを巻き起こし、改革を中断しようとします。これが国民の反発をまねき、社会主義労働者党はカーダールを1988年5月に退陣させます。そして、ネーメト・ミクローシュ(1948年〜 )を首相とする新体制に移行し、反体制派グループとの円卓会議で、総選挙の実施に合意。

 さらに1989年5月、オーストリアとの国境に設置していた鉄条網の一部を撤去し、東ドイツの国民がハンガリー経由でオーストリアへ入国し、西ドイツへ行くことを許可。東ドイツの指導者であるエーリッヒ・ホーネッカー書記長(1912〜94年)から激しい抗議を受けますが、東ドイツの人々がハンガリーとオーストリア経由で西ドイツへ向かいます。7月下旬から2ヶ月の間で5万人が国外脱出をしたとか。

 そして1989年10月23日に、ハンガリー共和国憲法が施行されて民主化を達成。ハンガリー人民共和国をハンガリー共和国と改め、ハンガリー社会主義労働者党もハンガリー社会党に改組し、複数政党制の中で選挙戦に臨みます。そして、1990年の選挙ではハンガリー民主フォーラムが勝利しました。


ハンガリーの首都ブダペストの王宮(撮影:ネオン)

ハンガリーの首都ブダペストの国会議事堂(撮影:ネオン)

○ベルリンの壁崩壊

 さて、話を少し戻してハンガリーとオーストリアの国境が開放されたことは、東ドイツに激震が走りました。既にポーランドも民主化を達成し、政治体制の維持が困難となります。

 ハンガリーが民主化を達成した1989年10月には、東ドイツでは相次ぐ東ドイツ国民の脱出と政治改革を求めるデモ、ソ連のゴルバチョフ書記長の支援が全く得られなかったことから、ホーネッカー書記長の求心力が低下し、とうとう内部クーデターによって辞任に追い込まれ、エゴン・クレンツ(1937年〜 )がドイツ社会主義統一党書記長に就任します。一方、チェコスロバキアでもオーストリアとの国境が開放されました。

 クレンツは体制を緩やかに維持しようと考えますが、もはや政治改革を求める国民の声に抗うすべはなく、11月に党と政府の分離、政治の民主化、集会・結社の自由化、市場原理の導入などの改革を表明。さらに、11月9日に東ドイツ政府は東西ベルリン間の交通を開放することを突如として表明し、ベルリンの壁の前に市民が殺到します。

 クレンツの狙いとしては、あくまで正規の出国手続きに基づいた、旅行許可の規制緩和だったようですが、報道官が「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発言してしまい、ベルリンの壁に市民が集結し、東から西へ市民がなだれ込みます。東ドイツ軍もこれを鎮圧することは出来ず、翌日には市民たちがベルリンの壁を自主的に壊し始めました。こうして、冷戦の象徴であったベルリンの壁はついに崩壊し、東ドイツは崩壊の一途をたどります。

 この突然の動きは、西ドイツやソ連を含めて各国指導部も殆ど予測しておらず、寝耳に水の出来事でした。そして1990年10月に東西ドイツはついに統合を果たしています。


ベルリンのブランデンブルク門(撮影:ムスタファ)
 旧王宮に至る目抜き通り「ウンター・デン・リンデン」の凱旋門として、1788年から1791年にかけて建設されたもの。東西ドイツ分裂時代にはベルリンの壁際の立ち入り禁止地域の真ん中で孤立しており、壁が崩壊したときには、多くの市民がこの場所で統一を祝いました。
 ちなみに門のモデルは、アテネのアクロポリスにあるプロピレア(神域の入り口の門)で、砂岩のドリス式円柱を両面に配し、屋根にはカドリガ(クワドリーガ)という、勝利の女神ヴィクトリアが乗る青銅製4頭立て馬車が付いています。

○チェコスロバキア



 1968年にチェコスロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクを中心としたプラハの春という民主化や経済自由化が進められるも、ソ連を中心としたワルシャワ条約機構軍が侵攻し、改革の動きが潰されたチェコスロバキアは、1969年4月にグスターフ・フサーク(1913〜91年)が共産党第一書記となり(1975年からは大統領職を兼任)、長期に渡るフサーク体制が続けられました。

 1977年にはヴァーツラフ・ハヴェル(1936〜2005年)らを中心にした「憲章77」と呼ばれる反体制運動が起こり、人権抑圧に対する抗議などが起こりますが、運動メンバーの多くは投獄されたり、国外追放処分を受け、フサークは強硬な支配体制を内外に示しました。

 しかし、ソ連のゴルバチョフ書記長の登場によって共産党の一党独裁体制に国内からの批判が高まる中、フサークは1987年12年に共産党書記長を辞任(大統領職は継続)。後任としてミロシュ・ヤケシュ(1922年〜 )が就任しますが、ヤケシュは反対派との対話は拒否するなど、依然として強硬路線を取ります。

 ところが前述のとおりハンガリーでオーストリアとの国境が開放されると、チェコスロバキアにも西ドイツ行きを求める東ドイツ国民が大量に流入することになり、折りしもホーネッカーが退陣に追い込まれたこともあり、チェコスロバキアでも「鉄のカーテン」の撤去に踏み切りました。

 そして周辺国の共産党政権が次々と倒れ、ベルリンの壁も崩壊する中、チェコスロバキアでも反体制派の動きが活発となり、ハヴェルが反体制派を糾合して「市民フォーラム」を結成。そして、1989年11月に大規模なデモが勃発します。チェコスロバキア政府は、市民フォーラムとの対話に応じ、共産党政権は退陣することになりました。これを、ビロード革命といいます。

 そして1989年12月に、ハヴェルを大統領とする新たな国家がスタートし、1990年6月に選挙が行われ、市民フォーラムが第一党の座を獲得しています。ちなみに1993年にはチェコとスロヴァキアに平和裏に分離しています。


プラハ旧市街(撮影:ネオン)
チェコの首都であるプラハの旧市街は世界遺産に指定されている美しい街です。

○チャウシェスク独裁体制の崩壊−ルーマニア革命



 これまで御紹介した事例では、紆余曲折はありましたが流血の事態に至ることなく、対話を通じて民主化が達成されて行きましたが、流血の事態を経て革命となったのがルーマニアです。

 同国ではニコラエ・チャウシェスク(1918〜89年)が1965年に共産党第一書記に就任し、1967年に国家評議会議長(国家元首)となって以降、独裁政権を続けていました。ソ連に対しては独自路線を打ち出し、これを歓迎した西側諸国との関係も良好に推移していましたが、北朝鮮の政治体制を模倣し始め、自身に対する個人崇拝を強制します。

 さらに、人口を増加させるため、人工妊娠中絶を法律で禁止したり、離婚に大きな制約をつけた結果、人口は増えましたが、「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれる多くの孤児が生まれ、ストリートチルドレンが社会問題化しました。

 また財政面では、西側諸国がソ連に反抗する東側諸国の1つとして、積極的に資金援助を行いますが、融資であったため、ルーマニアとしては借金(債務)がガンガン増えていく結果となります。このため、借金返済のために食料や工業製品が次々と輸出されて行きますが、国民生活は食料や物資の不足で窮乏しました。これに対してチャウシスクは農村への国民の移住を打ち出したため、国民の不満はピークに達します。

 そんな中で事態が急変したのが、1989年12月でした。

 12月16日、ルーマニア西部の都市ティミショアラでデモが発生し、これに対して治安警察(セクリタテア)がデモ隊に発砲し、多数の死傷者が出る弾圧が行われます。さらに12月21日には、首都ブカレストで政府主催のチャウシェスクを称賛する集会が開かれますが、爆弾テロが発生。そのまま、チャウシェスクに対する抗議集会へと変わり、やはり治安部隊が発砲し、多数の死傷者が出す苛烈な弾圧を行います。

 そしてチャウシェスクは、ワシーリ・ミリャ国防大臣に命じて、軍隊による鎮圧を命じますがミリャ国防大臣はこれを拒否し、しばらくした後に遺体となって発見されます。これを見たルーマニア国軍は、「チャウシェスクが殺したに違いない!ソ連の介入も無さそうだし、今こそ決起のとき!」と反旗を翻し、国内の反体制派に参加。

 12月22日、孤立無援となったチャウシスクは妻エレナをともなってブカレスト脱出を図りますが逮捕され、25日に夫妻共々銃殺されています。これによって、チャウシスクを支持する治安警察などの抵抗も収束し、民主化を達成。1990年5月に選挙が行われ、反チャウシスクの中心勢力であった救国戦線評議会が勝利しています。

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