第25回 1980年〜89年(6):保守主義の台頭とフォークランド紛争
○サッチャー政権誕生に始まる西側諸国の保守政権
1980年代は欧米諸国で次々と保守政権が誕生していったことでも知られています。ということで、今回は最初に1980年代の欧米で、どのような政権が誕生したのか、見ていきましょう。まず1979年、イギリスでは保守党のマーガレット・サッチャー(1925〜2013年)が小さな政府とイギリス経済の回復を掲げで総選挙に勝利し、同国初の女性首相に就任します。サッチャーは強固な政治姿勢で知られ、「鉄の女」との異名で有名です。
ちなみに小さな政府とは、経済活動における政府の関与を縮小し、民間に任せること。このためサッチャー政権では、教育・住宅・医療などの社会保障部門や国営企業を一部民営化を実施します。
ロンドンの首相公邸前
さらに、1980年にはアメリカ合衆国で、共和党のロナルド・レーガン(1911〜2004年)が、現職で民主党のジミー・カーター大統領(1924年〜)を破って大統領に当選。翌年に就任しました。レーガンも社会福祉支出など歳出を削減する一方、規制緩和や大幅減税によって民間の経済活動を活発化する政策を取ります。これを、レーガノミクスといいます。これによって景気は刺激されたものの、貿易赤字と財政赤字(双子の赤字)に悩まされることになりました。
ちなみにレーガンは「強いアメリカ」を目指して、1983年にカリブ海の小アンティル諸島南部にある、グレナダへの侵攻による親米政権の樹立や、1986年にリビア爆撃を行う一方、1987年にはソ連のゴルバチョフ書記長とワシントンで会見、中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に調印しています。翌年にはモスクワを訪問し、米ソは新たな関係に入りました。
さらに西ドイツでは1982年、キリスト教民主同盟のヘルムート・コール(1930年〜 )が、ドイツ社会民主党出身のヘルムート・シュミット首相(1918年〜 )に代わり首相に就任。
続いてカナダでは1984年、カナダ進歩保守党のブライアン・マルルーニー(1939年〜 )が総選挙で中道左派のカナダ自由党を破って首相に就任しました。ちなみに、前任のジョン・ターナー首相(1929年〜 )は、僅か79日という短い在任期間でした。
一方、フランスは逆で、1981年、社会党のフランソワ・ミッテラン(1916〜96年)が、フランス民主連合のヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領を破って、社会党初の大統領に就任。ただ、1986年にの議会総選挙では社会党が大敗を喫し、右派系の共和国連合出身のジャック・シラク(1932年〜 )が首相に就任し、保革共存(コアビタシオン)政治と呼ばれます。
ただ、1988年の大統領選挙ではミッテランはシラクに勝利。議会総選挙でも社会党が勝利しています。
パリの町並み
ちなみに日本では1982年、中曽根康弘(1918年〜 )が首相に就任して1987年まで政権を保持します。レーガン大統領とは互いを愛称で呼び合う親密な関係を構築し、「ロン・ヤス」関係と呼ばれます。これによって、日米安全保障体制は強固なものとなりました。
中曽根首相は「戦後政治の総決算」「新保守主義」をテーマに、武器輸出三原則の放棄や、防衛費のGNP1%枠突破、そして電電公社(→NTT)、専売公社(→JT)、国鉄(→JR)の民営化を行います。
フォークランド紛争
さて1982年、イギリスとアルゼンチンとの間で1つの島を巡って戦争が勃発します。場所は、下地図のとおり。アルゼンチンの南部からさらに東にあるフォークランド諸島。アルゼンチンでは、マルビナス諸島と呼ばれます。
ここを巡って、実効支配していたイギリスと、地理的には近いアルゼンチンが領有権をめぐって対立しました。その互いの言い分はこうです。
【イギリス】
1592年に、我が国の探検家ジョン・デイヴィス が島を記録している。だからイギリスのものだ!
【アルゼンチン】
1774年にイギリスはスペインに領有権を譲っている。アルゼンチンは1816年にスペインから独立し、フォークランド諸島についてもアルゼンチン領になった!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※
なお、1833年にイギリスはフォークランド諸島を再占領。イギリス軍の補給基地として重要な地位を占めますが、イギリスVSアルゼンチンの領有権問題が発生。そして1982年4月、アルゼンチン軍はついに軍隊をフォークランド諸島に諸島に侵攻しました。なぜ、事態が急転直下して戦争に至ったのでしょうか。
当時のアルゼンチンは軍事政権で、1981年12月にはアルゼンチン陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリ(1916〜2003年)が大統領に就任しますが、インフレに悩まされ、工業生産も不振で経済が危機的状況でした。これによって、軍事政権の弾圧にもかかわらず民衆による抗議はやまず、フォークランド諸島を奪取することで、人気回復だ!と考えたのです。
実際、4月2日に2000人の兵力でフォークランド諸島に侵攻し、占領に成功すると愛国心の鼓舞に成功します。一方、サッチャー首相は空母2隻(艦隊旗艦ハーミーズ、インヴィンシブル)など、約100隻の艦艇を派遣し、アメリカによる支援(アルゼンチンの軍事情報の提供など)や、アルゼンチンとの国境紛争を抱えていたチリの支援を受け、5月21日に上陸作戦を開始。
これに対し、アルゼンチン軍はイギリス軍の艦艇4隻を撃沈するも、歴然とした兵力の差に追い詰められ、6月14日、712名の死者と1万1000人の捕虜を出してイギリス軍に降伏します。
これにより、ガルチェリ大統領は任期失墜で辞任を余儀なくされ、軍そのものに対する信頼も失墜しました。これによって、退役陸軍中将のレイナルド・ビニョーネ(1928年〜 )が大統領になった後、翌年に選挙の実施を約束します。そして、急進党のラウル・アルフォンシン(1927年〜2009年)が大統領に就任しています。
ちなみに先ほど、チリとの領有権問題が少し出ましたが、アルゼンチンが領有権を譲歩することで、チリのアウグスト・ピノチェト政権と交渉を行い、平和条約の締結を結びました。これによって、「今度の政権は平和的ですよ!」と国際社会に印象を与え、隣国との関係改善にのみならず、国際的な孤立からの脱却を図っています。
チェルノブイリ原発事故
安定的に大量の電力を発電できる一方、取り扱いを間違えると大惨事になる・・・原子力発電の難しさを世界へ知らしめる事故が、1986年に発生しました。それが、チェルノブイリ原発事故です。事故の概要はこうです。
場所はウクライナの首都キエフの北方およそ130kmのベラルーシとの国境に近い町で、発電所自体はさらに20kmの距離にあります。そして1986年4月25日、4基の原子炉のうち4号炉が定期検査のため運転を停止します。これに合わせて実験も行うことになっていました。
しかし、実験は電力需要の少ない夜間にやってくれ、それまでは出力50%で良いから発電してくれ、と要請されていたため深夜11時からスタート。当然、眠い、待つのも疲れる、さらに人手不足。しかも、「実験するにあたって、事故と勘違いされて安全装置が働いたら困る」と、わざわざ緊急炉心冷却装置システムを切断してしまいます。
そんな非常に危険な状態で実験をスタート・・・したところ操作ミスで出力低下。難しいことはここでは書きませんが、当然出力UPを図ったり、今度は冷却装置が作動しないものですから、日が変わって26日深夜、急激な加熱にビックリして緊急停止を図ったり・・・としているうちに、なんと中性子を吸収する制御棒が上手く奥まで入らず、一方で制御棒先端部に入れてある黒鉛が核分裂を促進し、原子炉が暴走開始。
そのような中、加熱した水蒸気から発生した水素。
そして爆発がドーン!!と起こってしまったのです。
これによって原子炉の防護壁が爆風で吹き飛んでしまい、5000万キュリーと言われる放射性物質が大気中に飛散し、ウクライナ、ベラルーシはもちろん、一部はイギリス、トルコにまで達したそうです。しかも付近の住民には、特に危険は知らされず事故が起こったあとも、彼らは「なんだ、またいつの事故か」程度の認識で釣りをしたり、メーデーの準備をしたり、子供は学校に行ったりしていました。
27日の午後になってようやく避難命令が出ましたが、避難した場所は遠くない場所だった、と言う始末。しかも、汚染された農作物は、何を血迷ったか全国に出荷されてしまいます。
「汚染農作物を捨てるのは勿体ない。みんなで少しずつ食べれば怖くない。危険な農作物の処分も出来て一石二鳥」
という意味合いの政府関係者のメモも発見されたとかで、もう開いた口がふさがりません(1986年6月4日付の「ジャーナリストに対して記者会見をする人向けの」議事録32号添付資料)。
このため、多数の人達が被爆。死者はソビエトの当初発表では31人でしたが、もちろんその程度で済むはずはなく、さらに未だに後遺症に悩む人達も多くいます。特に、子供の甲状腺癌(がん)は深刻な問題で、現在はかなり改善されては来ましたが、最初の頃は手術の技術も低い状況でした。
日本にとってはある意味で遠い国の出来事のような感じでしたが、まさか2011(平成23)年3月11日の東日本大震災による津波によって、福島第一原子力発電所事故が発生するとは思わなかったでしょう。大量の電気に頼った生活をしている以上、原発の是非については単純に考えられるものではありませんが、いずれにせよ事故による教訓は確実に得ていきたいものです。
次のページ(第26回 1980年〜89年(7):80年代のインドと東南アジア)へ
前のページ(第24回 1980年〜89年(5):軍事政権終焉の韓国と中国の天安門事件)へ