第31回 1990年〜99年(5):ユーゴスラビア紛争
○押さえつける支配者がいなくなると・・・
引き続きヨーロッパについて見ていきます。
今回は東欧に視点を移しまして、ユーゴスラビア紛争について見ていきましょう。
今は無きユーゴスラビアという国は多民族、多宗教で、国名こそ「南スラブ人の国」という意味でしたが、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と呼ばれる状態でした。
6つの共和国とは、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア、スロベニアです。ちなみにセルビアと言えば、第1次世界大戦の引き金となった、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントの暗殺の舞台です。この結果、セルビアはオーストリア・ハンガリー二重帝国から宣戦布告を受け、第1次世界大戦が始まりました。
1918年には、セルビア王国を中心に「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」としてまとまり、1929年にユーゴスラビア王国に改名。第2次世界大戦ではナチス・ドイツによる占領を受けますが、クロアチア人共産主義者のヨシップ・ブロズ・チトー(1892〜1980年)が人民解放軍(パルチザン)を率いて抗戦し、ドイツ軍に勝利。
こうして、チトーを首班とするユーゴスラビア政府が成立し、1946年からはユーゴスラビア連邦人民共和国、1963年からはユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国名となり、社会主義国家としての道を歩んでいきます。一方、ソ連の力で独立を勝ち取ったわけではないことから、チトーはソ連のスターリンには従わないこととし、1948年には決別して、独自路線を歩んでいきます。
さて、強力な指導者がいたから不平不満は噴出しつつ、何とかユーゴスラビアは存続していましたが、チトーが亡くなると、いよいよ民族間で「あっちの方が優遇されている!」「あの民族が足を引っ張っている!」と対立が激化します。
一応、6つの共和国と2つの自治州で1年おきに連邦大統領を務めることにしますが、これでは満足に仕事が出来るわけがなく、さりとて複数年も権力を持たせるのは・・・という状態。1989年12月には、東欧の民主化の流れを受けて、ユーゴスラヴィアも共産党の一党独裁から、複数政党制に移行しますが、これが民族主義的な政党が慎重することになります。
○ミロシェヴィッチの登場
こうした中、セルビア共和国の大統領に就任したスロボダン・ミロシェヴィッチ(1941〜2006年)は、セルビア人が多数を占めるセルビア共和国の中でも、例外的にアルバニア人が多数派を占めるコソボ自治州に対し、自治権を取り上げようとしたことから、コソボは独立を宣言。こうして、内戦状態に突入しました。ちょっと解説をしておくと、コソボの地は1389年にセルビア王国がオスマン帝国に敗北した場所で(コソボの戦い)、これによってセルビアはオスマン帝国に服従を余儀なくされます。この経緯から、セルビア王国の聖地として認識され、イスラム教徒であるアルバニア人が住んでいることに、反発を覚える人も多くいました。この民族感情を利用して、ミロシェヴィッチは自らの権力基盤を固めようとしたのです。
○離反する各共和国
ところが、ミロシェヴィッチの強権的な手法は他のユーゴスラビア構成国に「我々もセルビアに併合されるのではないか」と不安感を与え、他にも折からの反セルビア感情もあり、相次いで独立に動いていきます。ただ、独立を宣言したものの、その国の中でも様々な民族がいますので、複雑な経緯をたどります。@スロベニア紛争(十日間戦争) 【1991年】
1991年6月にクロアチアとスロベニアが独立を宣言。これに対し、セルビア人を主体とするユーゴスラビア連邦軍は、独立を阻止しようと鎮圧に動きますが、スロベニアについては10日間の戦争でセルビアが敗北。
こうして、スロベニアは独立しました。
セルビアと直接国境を接していなかったのも、比較的スムーズに独立できた理由だと思います。
首都リュブリャナの様子
Aクロアチア紛争 【1991〜95年】
続いてクロアチアについては、国内にセルビア人が多数派を占める地域が多く、今度はクロアチアに対する独立を求めてクライナ・セルビア人共和国の独立を宣言するなど、事はそう簡単に進まず、死傷者が次々と出たほか、様々な都市に被害が出ていきます。結局、停戦に合意したのは1992年1月のことでした。ただし、その後も戦闘が散発し、最終的に情勢が安定するのは、1995年まで待つことになります。
そんなクロアチアですが、現在は落ち着きを取り戻し、上写真の世界遺産ドゥブロヴニク旧市街は、観光スポットとして絶大な人気を誇っており、日本からも多くの人が訪れています。上写真は弊サイトのネオン所員が撮影したものですが、見事な風景であることがお分かりいただけると思います。
なお、クロアチア紛争時にはユーゴスラビア軍による砲撃を受け多数の死傷者が出たほか、旧市街にも被害が出ています。こうした悲劇が二度と起こらないことを願うばかりです。
Bボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 【1992〜95年】
1992年3月、サラエヴォを首都とする、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言します。
この動きを主導したのは、オスマン帝国下でイスラム教に改宗した、南スラブ人の末裔ボシュニャク人でした。
しかし、セルビア人が多く住む地域は反発して「スルプスカ共和国」の設立を宣言し、ユーゴスラビア連邦軍が介入して内戦に。さらに、1993年春にはクロアチア人たちが、ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の樹立を宣言し、泥沼化します。
男は一人残らず抹殺し、女性には我々の民族の子を産ませろ!といった民族浄化や、女性に対する強姦などの過激な手段も多発し、ヨーロッパにおける紛争の中でも特に悲劇的な様相を呈します。最終的にはNATOによるセルビア側への空爆によって、セルビア側の戦力が低下。1995年、ボスニア、クロアチア、新ユーゴスラビア(※)の紛争当事国3首脳が和平協定(デートン合意)に仮調印し、12月にパリで正式調印しました。
現在はクロアチア人およびボシュニャク人が主体のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人が主体のスルプスカ共和国の2つの構成体からなる連邦国家となっています。
首都サラエヴォの様子
(※)新ユーゴスラビア
正しくはユーゴスラビア連邦共和国で、旧ユーゴスラビアが実質的に解体されたことから、1992年にセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成されたもの。2003年には、国家連合セルビア・モンテネグロとして、緩やかな国家連合体に移行した後、2006年に住民投票でモンテネグロが独立したため、セルビアと完全に分離しています。
Cコソボ紛争 【1996〜99年】
さて、セルビアに併合されたコソボでは、1996年からコソボの独立を目指すコソボ解放軍によるセルビアの政府や警察署などが相次ぎ、1998年2月末、セルビア警察部隊はコソボ解放軍へ大規模な攻撃を開始。一方、3月にはコソボの中でも穏健派のイブラヒム・ルゴヴァ(1944〜2006年)を大統領とするコソボ共和国の設立が宣言されますが、コソボ解放軍はゲリラ的な戦いを続け、これに業を煮やしたセルビア側が、住民の無差別な殺害を行い、数十万のアルバニア人難民が隣国のアルバニアなどに逃れていきました。
9月には国連安全保障理事会は即時停戦を求める決議が採択。
和平も模索されますが失敗し、1999年3月からはNATOによるユーゴスラビアへの空爆を開始。これが中国大使館へ誤爆し、2人が死亡して外交的な大問題に発展したこともありましたが、6月3日にユーゴスラビアは和平案を受諾し、国連安保理決議にもとづいて、国際治安部隊が派遣されました。
そして、コソボは2008年2月17日に独立を宣言し、コソボ共和国として国連加盟国の半数以上の国家の承認を得ていますが、セルビアをでは未だに自治州としてみなしており、ロシア、中国なども独立を承認しておらず、紛争が完全に解決したわけではありません。また、和平後にはアルバニア系住民によるセルビア人の虐殺といった報復も問題になりました。
首都プリシュティナの様子
Dマケドニア紛争 【2001年】
2000年代の話になりますが、関連があるので引き続き。コソボから逃れたアルバニア人に難民たちのうち、約50万人がマケドニアへ行きますが、これがマケドニアの人口の3割を占めるアルバニア系住民と結びついて、アルバニア民族主義が高まり、2001年2月、アルバニア系住民の民族解放軍(NLA)が武装蜂起。マケドニア軍との間で武力衝突が起こります。
欧米諸国は事態を憂慮し、EUが仲介を行ってアルバニア系住民の権利を拡大することで、和平に調印。こちらは現在、落ち着いていますが、以上のように旧ユーゴスラビア地域の90年代は大変な状況であったことが、お分かりいただけたのではないかと思います。
首都スコピエの様子
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