第30回 室町幕府の絶頂期、足利義満の時代
○有力守護大名を討伐せよ!
さて、細川頼之が失脚する前年の1378年に、足利義満は京都の室町に造った豪華な「花の御所」へ引越し、ここから室町幕府の名前がのちに誕生します。そして、彼は強力な将軍を目指し、その邪魔になりそうな有力守護大名の勢力を減少させることにしました。まとめると、次のようになります。
1390年 土岐康行の乱
伊勢、美濃、尾張の3国を支配する土岐氏の勢力を削減。先ほど名前だけ登場した、土岐頼康が亡くなったあと、その息子の土岐康行には美濃、尾張の守護職を、康行の弟である土岐満貞に伊勢の守護職を与え、兄弟げんかを起こさせます。そこに、義満は
「康行は幕府に対して反乱をしている」
としてこれを討伐。そして土岐康行が降伏すると、今度は土岐満貞から伊勢の守護職を取り上げ、結果的に土岐氏から伊勢を失わせました。利用されたのは、土岐満貞だったわけで・・・。
1391年 明徳の乱
六分の一衆とよばれるほど、一族で山陽、山陰に11カ国もの守護を持っていた山名氏の勢力を削減。全国66カ国の6分の1を持っていたから、先のように呼ばれたわけですが、なんとこれを3カ国に減らすことに成功します。やはり、山名時氏が死んだのをきっかけに、山名氏清らの後継者を守護職の任免で挑発し、反乱を起こさせます。そして、復帰した細川頼之や、畠山氏、大内氏らに山名氏を討伐させ、幕府に味方した山名一族のみ、3カ国を与えました。
1396年 応永の乱
今度は周防国(山口県)や、山名氏が領国を減らされてからは和泉国(大阪府)なども得て、計6カ国の守護であった大内義弘を討伐。彼は朝鮮との貿易などでも利益を上げていたため、足利義満としては、これを何とか取り上げたい。大内義弘は足利義満の嫌がらせに「我慢ならん!」と反乱を起こし、反義満派と連携をとろうとしますが、各個撃破され、義弘は堺(大阪府)で戦死。大内氏の領国は、周防と長門の2カ国だけとなりましした。
○さらに将軍の力を強化せよ
有力守護大名の勢力を削減するだけでは、ただ単に室町幕府の勢力が減少するだけです。やはり将軍自身に金と、軍事力がなければだめですね。そ、こ、で!
先ほど登場した、段銭(反銭)という臨時の固定資産税以外にも、こんなことをして将軍の力を強化しています。
1.奉公衆
将軍直属の軍隊を結成し、将軍の領地である御料所の管理も任せました。
2.倉役・酒屋役
高利貸しなどの金融業を営む土蔵や酒屋に、税金をかける。
3.関料、津料
交通の要所には関所を設けて通行税(関料)を、港からは入港税(津料)を頂きます。また、やはり金融業を営んでいた、京都五山の禅寺にも課税を行います。また、守護・地頭にも面積などに応じて税金をかけます。
*津というのは、港という意味ですよん。
○南北朝合一へ
絶対的な力を前に、足利義満はついに北朝、南朝の2つに分かれた朝廷を1つにしようとします。
色々と交渉が続けられた後、1392(明徳3)年、南朝の後亀山天皇が京都に戻って、北朝の後小松天皇に譲位するという形式をとることで、ついに南北朝の合一を実現したのです。その一方、本来は朝廷の本拠地であった京都の施政権などを、朝廷から幕府に移し、さらに将軍としてはじめて太政大臣に就任。
足利義満は、どうやら自分が天皇になりたいとも考えていたようで、1406年に足利義満は、妻である日野康子を後小松天皇の准母(名目上の母)とすることに成功。ということは、足利義満も准父(名目上の父)というわけです。武家だけでなく、公家の世界でも義満は大きな地位を得ることになります。
(上写真はいわずと知れた金閣こと、鹿苑寺舎利殿。義満が北山山荘内に造営したものです)
○日本国王、明と貿易を始める
・・・と、ここでちょいと東アジア情勢について。鎌倉時代に日本に侵攻してきた元は、フビライ=ハンの死後、次第に衰退に向かいます。そして、各地で反乱が起き、最終的に朱元璋に率いられたグループが中国を統一し、朱元璋は明(みん 1368〜1644年)という国家を建国し、皇帝となりました(太祖/洪武帝として、位1368〜98年)。
明は中国の伝統である、中国を盟主(ボス)とした東アジアの国際秩序を回復するべく、諸国に通交を求めます。すなわち、諸国の国王が、明の皇帝陛下に貢物を持ってこさせ(朝貢)、「我々は皇帝陛下に従属します」と宣言させる。その代わり、明は諸国に大きな内政干渉は行わず、返礼という形で色々な「うまみ」を与え、明との貿易などを許可する、というもの。さらに、明の商人は海外に原則として行かせない、解禁政策を採ります。
日本に対してももちろん「通交しないか」とお誘いが来ますし、この頃に九州とその付近の島々を根拠とし、中国沿岸や朝鮮をしばしば荒らしまくっていた倭寇(わこう)と呼ばれるか海賊集団の取締りを求めます。・・・ちなみに、倭寇の構成員の多くは中国人なので注意。もちろん日本人もいましたが、むしろ少数ですので。
そこで、足利義満は1401(応永8)年、祖阿というお坊さんを正使に、博多(現、福岡市)商人の肥富を副使とする使者を明に派遣し、国交を樹立します。このときに義満を狂喜乱舞させたのが、明から「汝(なんじ)を日本国王とする」という文言。なんと、明の皇帝陛下から、日本国王に任命(冊封/さくほう)されてしまったのです。天皇就任に向けての野望にさらに前進、でしょうか。もっとも、野望を達成する前に、足利義満は亡くなっています。
それはともかく、こうして日本と明の間で貿易が始まりました。これを日明貿易といいます。
この貿易の特徴は、明に貿易船を派遣するときに、いわば入国管理局(笑)で、事前に明から勘合(かんごう)と呼ばれるパスポートを見せなければダメということ。ただのパスポートではありませんよ、ICタグが内蔵され・・・じゃない、簡単に言えば1枚の札(ふだ)を半分に割って、片方を明が、もう片方を日本が保有。
貿易船は中国の寧波の港へ行き、勘合が中国側所有のものと1枚に合うかどうかで、正式な貿易船かどうかをチェックされるわけです。そのためこの貿易は、勘合貿易とも呼ばれます。日本からの輸出品、日本への輸入品は次の通り。
輸出品
・硫黄、銅などの鉱物、刀剣、扇子、漆器、屏風など
輸入品
・明銭(特に永楽通宝)、生糸、織物、書物など
この永楽通宝という、明の3代皇帝永楽帝(位1402〜1424年)の頃に発行された銅銭が特に重要な品目。律令体制の崩壊と共に貨幣を発行する役所や技術が無くなっていた日本にとって、質が良くて大量に輸入が可能な明の永楽通宝はありがたい存在でした。この永楽通宝など、中国で鋳造された貨幣が大量に日本経済に出回ることによって、貨幣を使った取引が急速に一般化していきます。
○貿易の推移
ところが、4代将軍の足利義持や前管領の斯波義将らは「形式的とは言っても明の皇帝に従属するなんて、お断りだ!」
と、日明貿易を中止させてしまいます。
ところがこの貿易、明の自尊心さえ満たしてあげれば、貿易従事者の明での滞在費や運搬費などを、すべて明が負担してくれるという、なかなか魅力的な貿易だったんですね。そのため、商人から不満の声が上がりますし、幕府の収入源も減ってしまいました。さらに、銅銭の輸入も絶たれ、日本経済にも悪影響が。
そこで、6代将軍、足利義教(1394〜1441年)のときにめでたく再開。
その先についてもちょっと書いておきますと、それ以後、幕府の権力が大幅に衰えたため、貿易は堺(現、大阪府堺市)の商人と手を組んだ細川氏と、周防・長門(山口県)の守護で、博多(現、福岡県福岡市)の商人と手を組んだ大内氏の2大勢力に引き継がれます。これがまた、仲が悪いんだ。なんと1523(大永3)年、わざわざ中国の寧波で衝突しまして・・・。
結局、細川氏も次第に勢力を失い、大内氏の独占となり続いていきますが、よく知られているように大内氏は毛利元就によって滅ぼされ、日明貿易は終了しました。
それから、意外に忘れられがちですが、朝鮮との日朝貿易も盛んに行われました。
当時の朝鮮ですが、それまでの高麗に代わって、1392年に李成桂(イ・ソンゲ 1335〜1408年)が建国した李氏朝鮮(1392〜1910年)が支配していました。やはり日本とも通交と貿易を行いたい・・・という話になったので、足利義満は、こっちは対等の関係で、また幕府の独占ではなく、守護大名や豪族などまで自由に参加させて貿易をすることに決定。
・・・困ったのはむしろ李氏朝鮮で、「そんなに大勢こられても困る・・・」と、対馬を支配していた宗氏を交渉の窓口にして、貿易のルールを定めました。この貿易、応永の外冦(李氏朝鮮が1419年、倭寇の根拠地と考えた対馬を侵略し、朝鮮軍が敗北)によって、一時中断されたほかは活発に行われ、特に木綿の輸入は、人々の服装に大きな影響を与え、また日本側からは銅や硫黄、香木などが輸出されます。
日朝貿易について、李氏朝鮮は富山浦(のちの釜山=プサン)、乃而浦、塩浦の3つの港を開港し、それぞれ日本側の施設を接待する倭館を設置し、様々な特権を与えました。しかし、その特権も次第に縮小されていったため、1510(永正7)年に現地の日本人が暴動を起こすという、三浦の乱が発生。暴動は鎮圧され、これ以後、日朝貿易は大いに衰退しました。
○琉球王国
ところで、この時代の沖縄も少し見て行きましょう。この頃の沖縄は、南山(なんざん)、中山(ちゅうざん)、北山(ほくざん)の3つが争っていました。そして、3勢力とも明と通交して、東南アジア産の物産を明を中心に各方面へ中継して運ぶ、中継貿易を展開。そんな中、1429年に中山王である尚巴志(しょうはし)が沖縄を統一し、琉球王国(りゅうきゅうおうこく)が誕生。繁栄の時代を迎えていきます。
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