第53回 寛政の改革と伊能忠敬の日本測量

○正確な地図を作れ! 伊能忠敬の日本縦断

 ところで、この時代の偉人として伊能忠敬(いのうただたか/1745〜1818年)が挙げられます。
 彼は今見ても、その超高精細さにビックリ仰天の日本地図「大日本沿海輿地全図」を作り上げた人物。現在の千葉県九十九里町小関の出身で、18歳の時に佐原(現、千葉県香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、商才を発揮し伊能家を建て直します。

 そして、これが凄い話で1794(寛政6)年、50歳で隠居すると江戸に出て、幕府天文方の高橋至時(たかはしよしとき/1764〜1804年)の弟子になって測量を勉強。2人の生まれた年を見ていただけると解りますが、当時の高橋至時は新進気鋭の若手学者で、年齢的に伊能忠敬から見ればずっと年下の若造ですが、しっかりと教えを請います。

 そして高橋至時に才能を認められ、彼の勧めで自費で蝦夷地・奥州道中を測量し、作製した地図を幕府に献上したところ
 「これは素晴らしい。最近は異国の船がわが国に数多く来ている。防衛上こうした地図の作成は重要だ!」
 とこれまた認められ、幕府が全面的に測量の支援に乗り出します。

 こうして72歳で亡くなるまで17年にわたって日本全国の測量を行い、4万km余を踏破。続いて地図の作成に入り、彼が亡くなってから3年後に完成しました。業績もさることながら、50歳で全く別の世界に飛び込むというチャレンジャー精神が凄いですね。

 この地図については、国立国会図書館が所蔵分をネット公開しています。
 http://www.ndl.go.jp/exhibit/50/html/wb39-6/mokuji.html
 ぜひ、その美しさを見てくださいませ。ちなみに高橋至時もケプラーの法則の研究や、フランスの天文学者ラランドの「天文書」の日本語訳を目指すなど、大変優れた学者。しかし頑張りすぎが祟ったようで、41歳の若さで伊能忠敬より、ずっと前に亡くなってしまいました。

 しかし、高橋至時の長男である高橋景保(たかはしかげやす 1785〜1829年)も幕府天文方となり、彼が伊能忠敬没後に大日本沿海輿地全図の仕上げを行うのです。もっとも、幕府は長らく成果を秘蔵として公開しませんでした。

 ところが高橋景保はこの写しを学問的探究心から、江戸にやってきていたシーボルトというドイツ人医師・博物学者にクルーゼンシュテルンによる最新の世界地図と交換で渡します。そして・・・それが発覚してしまい捕らえられ、獄中で亡くなるという悲劇の最期を迎えてしまいました。


 こちらは国立科学博物館にて複製品を撮影したもの。基本的には沿岸が中心なので、内陸については省略された部分が多いですが、それにしても今見ても何の違和感もありません。


 伊能忠敬が使用した量程車(複製品/国立科学博物館)。車輪を回転させて、その回転数で距離を測ります。ただし、平坦なところでないと正確な測量が出来ませんので、使う場面は限られました。

 伊能忠敬が使用した中象限儀(ちゅうしょうげんぎ/複製品/国立科学博物館)。こちらは星の高度を測る器具で、正確な緯度を求めるために使いました。
 ちなみに大日本沿海輿地全図の内訳ですが、3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚。また幕府に献上された原本は、明治政府に引き継がれて間もない1873(明治6)年の皇居火災で焼失。

 そこで伊能家から控え本(副本)が献上されますが、これも1923(大正12)年9月の関東大震災で焼失するという、何とも残念なことに。ただ、江戸時代から精密な写しが幾つか作られており、中図と小図については全て揃っていました。しかし大図は数多くが欠落したままでした。

 それが2001(平成13)年に、なんと214枚中207枚の大図写しがワシントンのアメリカ議会図書館で発見されて大ニュースに。では残り7枚は・・・と、間もなく3枚が佐倉市の国立歴史民俗博物館で発見。さらに、2004年に残る4枚が海上保安庁の海洋情報部で発見され(ただし2分の1に縮小された写し)、ようやく大日本沿海輿地全図の全容が明らかになりました。また、2007(平成19)年にも再び海上保安庁から高精細な模写図3枚などが発見されてます。


香取市佐原に立つ伊能忠敬の像。

現在も佐原の古い町並みの中に残る伊能忠敬旧宅。

○シーボルト親子と日本

 ところで、先ほど登場したシーボルトについて少し。
 シーボルト(フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト)は、1823(文政6)年にオランダ東インド会社の日本商館付医員として長崎に来日した人物で、、長崎郊外に鳴滝塾をひらいて高野長英伊東玄朴らに自然科学を教授。そして出島の新商館長に随行して江戸に出て、徳川家斉に謁見したほか、先ほどの高橋景保をはじめ、宇田川榕庵大槻玄沢らの蘭学者と交流します。

 ところが、先ほどの大日本沿海輿地全図の写しを国外に持ち出そうとしたこと等の罪で国外追放に。しかし、彼が日本滞在中に収集した日本の動物や植物に関して膨大な研究成果は、科学的な見地から書物にまとめられてヨーロッパに紹介し、大きな学問的影響を残しました。

 さらにシーボルトは前ページで紹介した間宮林蔵の研究成果であるサハリンが島であることを記念して、大陸との海峡の名前を「間宮海峡」(タタール海峡)としてヨーロッパに紹介し、この呼び名が定着しました。

 ちなみにシーボルトと日本の縁はこれで終わったわけではありません。
 幕末の1858(安政5)年に日蘭通商条約が結ばれると、翌年に再来日。なんと幕府顧問まで務め、1862(文久2)年に帰国します。さらにシーボルトが長崎滞在中に、愛人滝との間に生まれた娘である稲本いねは、日本で最初の女性の産婦人科医に。もちろん、シーボルト来日時には再会しています。

 この再来日時にシーボルトに同行したのが、長男アレクサンダー・フォン・シーボルト。幕末における徳川昭武らのフランス派遣への随行や、明治時代には大蔵省、次いで外務省に勤務して、諸外国との条約締結交渉などで活躍。後年は井上馨外務卿の秘書として活躍し、長年にわたって日本の外交に多大な貢献を果たしたことから、明治天皇より勲二等瑞宝章が授与されています。

 さらに、次男のハインリッヒ・フォン・シーボルトも、兄アレクサンダーの再来日に同行し、東京でオーストリア・ハンガリー公使館に通訳官や外交官として勤めます。そして1872(明治5)年に明治政府が初めて参加したウィーン万博の際には展示品の編成などに尽力して、大成功を収めます。

 さらに彼は研究者としても優れた人物で、日本考古学覚書、アイヌ民族研究を著したほか、モース博士と大森貝塚発掘の発見を競争するなど、日本の考古学に大きな影響を与えました。また、考古説略を出版して、考古学という言葉を日本で根付かせたのは実は彼。日本の考古学研究の歴史は彼抜きにして語れません。

参考文献
徳川十五代 知れば知るほど (大石慎三郎監修/実業之日本社)
ビジュワルワイド図説日本史 (東京書籍)
日本史小事典 (山川出版社)
エンカルタ百科事典2007 (マイクロソフト)
詳説日本史(山川出版社)
マンガ日本の歴史35 米将軍吉宗と江戸の町人 (石ノ森章太郎画/中央公論社)
日本史リブレット48 近世の三大改革(藤田覚著 山川出版社)
ジャパンクロニック 日本全史(講談社)
江戸三〇〇藩バカ殿と名君 (八幡和郎著/光文社新書)
結論!日本史 古代〜近代編1 (石川晶康著/学研)
朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
ハインリッヒ・シーボルト没後100年記念事業 http://www.siebold.co.jp/
教科書が教えない 歴史有名人の子孫たち(新人物往来社)
長崎文化ジャンクション 長崎文化百選 http://www.pref.nagasaki.jp/bunka/hyakusen/kaigai/032.html

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