第60回 安政の大獄と失墜する幕府の権威
○このページの地図(長州藩関連)(Googleマップより)○下関事件と薩英戦争なんと長州藩は実際に攘夷を決行し、下関を通過する外国船に対し無差別な攻撃を開始(下関事件)。これは後に、手痛い反撃を受けることになります。 再現された長州藩砲台(下関市みもすそ川公園) さらに7月、生麦事件の報復としてイギリスの艦隊7隻が薩摩藩の本拠地、鹿児島に対し砲撃をしかけ、戦争に突入(薩英戦争)。薩摩藩は善戦し、陸上からの砲撃で旗艦ユーライアラスの艦長・副長を戦死させるなど善戦しますが、城下町を砲撃で焼き払われるなど、多くの被害を出しました。 結局、イギリスと薩摩藩は講和を結び、薩摩藩が賠償金を支払うことで決着。そして「攘夷は不可能」と悟った薩摩藩、そして「意外と優秀だ。幕府よりも薩摩藩と信頼関係を作った方がよい」と考えたイギリス。両者は急速に接近し、薩摩藩はイギリスの協力のもと、急速に軍備を拡大していくことになります。 ○八月十八日の政変と池田屋事件攘夷を決行し、幕府に対しても強硬に出ようと意気揚々とする長州藩と、それを支援する公卿たちでしたが、その先鋭化、過激化には幕府との公武合体を考える孝明天皇以下、公武合体派の人々には危険分子とみなされました。そこで、薩摩藩と京都守護職を務める松平容保の会津藩、そして中川宮朝彦親王や近衛忠熙・近衛忠房父子らの公卿たちが連帯し、武力をもって長州藩を京都から追い払うことを決定。京都御所の風景 実力行使で長州藩兵を京都から追放し、長州藩主の毛利敬親(もうりたかちか/1819〜71年)と子の毛利定広は国元にて謹慎となりました。さらに長州藩を支援する三条実美(さんじょうさねとみ 1837〜91年)・沢宣嘉ら公家7人も京都から追放し、彼らは長州藩へ逃れることになります(七卿落ち)。このクーデターを八月十八日の政変といい、これによって尊王攘夷派は大きな打撃を受けます。 三条実美らが滞在した、広島県福山市鞆の浦にある太田家住宅 そして、起死回生の策を狙うべく土佐藩などの尊王攘夷派の志士と京都の池田屋で密会していたところを、新選組に察知され襲撃を受け、吉田松陰が特に目をかけた弟子である吉田稔麿(としまろ 1841〜64年)など、多くが命を落としてしまいました(池田屋事件)。 ○禁門の変これに憤慨した長州藩は、なんと福原元|(ふくはらもとたけ/通称:福原越後)、益田兼施(ますだかねのぶ/通称:益田右衛門介)、国司親相(くにしちかすけ/通称:国司信濃)の三家老などが兵を京都に進めます。そして、京都御所の蛤御門にて会津藩、桑名藩と激突。さらに西郷隆盛が指揮する薩摩藩とも交戦に入りますが、敗北し、来島又兵衛(くるしままたべえ)、久坂玄瑞(くさかげんずい)、寺島忠三郎ら名だたる長州藩の面々が戦死、もしくは自害してしまいます。 ○第一次長州征討と四国艦隊下関砲撃事件当然のことながら孝明天皇は怒り心頭で、長州藩を朝敵に指定。幕府は第一次長州征討を実行します。幕府軍が迫る中、先ほどの外国船無差別攻撃への報復として、アメリカ、オランダ、イギリス、フランスの4カ国連合艦隊に下関を攻撃され、砲台が制圧されてしまいます。これを四国艦隊下関砲撃事件といいます。さすがの長州藩も、「攘夷は不可能である」と認識するのに十分でした。 こうして同年11月、長州藩では先ほどの福原越後、益田右衛門介、国司信濃の三家老を切腹させることをもって、幕府に恭順の意を示し、降参。ここで取りつぶし、もしくは領地の大幅削減まで実現できれば、その後の歴史も大きく変わっていたのでしょうが、幕府は謝罪を受け入れ、取りあえず一件落着となります。 その一方、長州藩の諸外国への賠償問題等については、高杉晋作が交渉を担当。賠償金については、「攘夷は幕府の命令に忠実に従ったこと」として、長州藩が払うべき諸外国への賠償金は、なんと幕府が支払うことになってしまいます。その額、なんと300万ドルだとか。 ○薩長同盟さて、その高杉晋作は「藩首脳部が、幕府に恭順するとは反対である!」と、以前から組織していた「奇兵隊」を使って下関にて決起します(奇兵とは、藩の正規兵(正兵)に対する言葉で、身分に関係なく入隊することが出来、長州藩の重要な戦力となりました)。高杉晋作が決起した功山寺 (山口県下関市長府) そして、下関の豪商である白石正一郎(しらいししょういちろう 1812〜80年)や豪農など、周辺からの支援を得て藩政府に戦いを挑み、山縣狂介(のちの山縣有朋 やまがたありとも/1838〜1922年)の奇襲攻撃により、各地で藩の軍隊を撃破。ついに藩の権力を奪取することに成功します。 もっとも、高杉晋作は下関開港を推進しようとし、そもそも攘夷運動が盛んだった、長州藩の藩士たちから命を狙われるようになり、四国に逃亡。松山の道後温泉などで療養生活に入ります。 一方、坂本龍馬や、龍馬と同じ土佐脱藩の中岡慎太郎(なかおかしんたろう 1836〜67年)の仲介もあり、京都の薩摩藩邸にて、薩摩側が西郷隆盛、大久保利通、小松清廉(帯刀)、長州側が桂小五郎(後の木戸孝允 1833〜77年)を代表とし、薩長同盟が結ばれました。 ・・・と書くと簡単そうに見えますが、最初は西郷隆盛が所用によって会談の約束をすっぽかして桂小五郎がプッチンとキレたり、ようやく第2回の会談にこぎつけても、互いに面子があるものですから、なかなか同盟の話を双方切り出さなかったり、土壇場まで坂本龍馬も苦労したそうで・・・。 現在も残る亀山社中の建物 神戸を去った坂本龍馬は、長崎で亀山社中を設立。ほかの志士たちが斬り合いに明け暮れる中、薩摩藩の援助のもと、長崎のグラバー商会と手を結んで、銃器の取引や物資の輸送を手がけます。そして坂本龍馬は、薩摩藩名義で購入した銃器を、長州藩に流し、一方で長州藩が薩摩藩に対し、米を支援するなど相互軍事同盟をゆるぎないものとしました。 1867年4月には、亀山社中は土佐藩の海援隊に改組。坂本龍馬の死後は、その遺産の一部を、同じ土佐出身の岩崎弥太郎が引き継ぎ、現在の三菱グループへと発展させます。 グラバー邸 1863(文久3)年に長崎に建てられた、現存では日本最古の木造洋館。前述のように持ち主のトーマス・ブレーク・グラバー(1838〜1911年)は、幕末に薩長の志士たちに多くの武器を売ったり、1863年には長州藩の井上馨や伊藤博文などのイギリス留学を斡旋した、スコットランド出身の商人です。幕末に使用された薩長側の銃器の大半は、彼が斡旋したもので、ある意味で薩長同盟で最大のメリットを受けた人。 日本人と結婚し、日本にとどまりますが、明治維新後は武器が売れなくなりグラバー商会は倒産。それでも世界進出を狙う三菱の相談役に迎えられて活躍し、三菱の黎明期を支え、後には明治維新の功績によって、勲二等旭日章を受けます。また、息子の倉場富三郎も実業家として活躍し、日本と海外の架け橋となるべく内外クラブを設立しています。しかし、戦争中はスパイ容疑をかけられ、さらに原爆投下から11日後に自殺しました。莫大な遺産は、街の復興のために役立てて欲しいとの由。 ○第二次長州征討さて、舌の根も乾かぬうちに、再び幕府への敵意むき出しとなる長州藩。当然、幕府は黙っているわけがありません。 「今度こそ長州藩を叩き潰せ!」 と将軍、徳川家茂は第二次長州征討を発令し、四方面から長州藩を攻撃。ところが、長州藩と密かに手を組んだ薩摩藩は出兵せず。さらに装備が一気に近代化され、これに高杉晋作が海軍総督として呼び戻された長州藩を前に、九州の小倉藩が長州藩に敗北するなど、手痛い反撃を受けます。 小倉城 下関と関門海峡を挟んで反対側の小倉城(福岡県北九州市)。小倉藩主で老中の小笠原長行(おがさわら ながみち 1822〜91年)が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋ら率いる長州藩は、関門海峡を挟んで戦闘を行いますが、小倉藩は敗北し、城に火を放って撤退します。 山口藩庁門 この時期の長州藩は、それまでの萩から山口へ藩の主要機能を移転。不便な日本海側から、長州藩全域に号令のしやすい、現在の山口県の中央部へと進出。幕府との戦いにも備えます。 そんな中で徳川家茂が若くして死去。 そこへ入ってきた小倉藩敗北の知らせに戦争は中止となり、第15代将軍に徳川慶喜が就任しました。 ちなみに、この時期の長州藩にて縦横無尽に活躍した高杉晋作も、肺病でこの世を去りました。 参考文献 ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 幕末・維新知れば知るほど (勝部真長監修 実業之日本社) 徳川慶喜をめぐる幕末百人オールキャスト (世界文化社) 歴史群像シリーズ53 徳川慶喜 (学研) 詳説 日本史 (山川出版社) 結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研) この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房) マンガ日本の歴史42 (石ノ森章太郎画 中公文庫) 読める年表日本史 (自由国民社) 新詳日本史 (浜島書店) 兵庫県の歴史散歩 (山川出版社) 外務省ホームページ 開港開市延期問題と文久遣欧使節団派遣 http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/j_uk/02.html 在ニューヨーク日本総領事館 http://www.ny.us.emb-japan.go.jp/150th/html/kanrin1.htm 三菱人物伝 トマス・グラバー http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man01.html 次のページ(第61回 戊辰戦争)へ 前のページ(第59回 ペリー来航と日本の開国)へ |