第72回 初の政党内閣の誕生
▼第一次大隈重信内閣(第8代総理大臣)
1898(明治31)年6月〜11月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:第一次大隈内閣を参照のこと。○主な政策
・特になし○総辞職の理由
与党の憲政党の内紛で辞職○解説
こうして憲政党を中心とする、日本初の政党内閣が誕生。旧進歩党系の大隈重信を総理大臣に、旧自由党系の板垣退助を内務大臣とし、2人の名前から隈板内閣(わいはんないかく) と呼ばれました。とうとう、いわゆる薩長の実力者が総理大臣になる時代の終焉が迎えるんだ・・・と思われましたが。結局、自由党と進歩党は選挙に向けて大急ぎで合併しただけで、元々の政策理念は水と油。官吏のポストの配分を巡って対立、加えて駐米公使だった星亨(旧自由党)が、外務大臣にしてくれと日本に無断で戻ってきたところ、大隈総理がこれを拒否し、星亨を敵に回してしまいます。
これに旧進歩党系の文部大臣、尾崎行雄(1858〜1954年)が議会で「仮に日本が共和主義になったら、三井や三菱が(金の力で)大統領の候補者となるだろう」と金権主義の危険性を演説。ところが、たとえ仮の話でも天皇制を否定するとはどういうことだ!と世論が沸騰(共和演説事件)。加えて星亨ら旧自由党が「尾崎を追い出して勢力を拡大しよう」と火に油を注ぐ始末。尾崎文相は辞任します。
そこで大隈総理は、後任の文部大臣に旧進歩党から犬養毅(1855〜1932年)を起用するものですから、さあ大変。
ついに憲政党は分裂し、旧自由党系が引き続き憲政党、旧進歩党系が憲政本党を名乗り、大隈総理は政権運営を諦めて辞職しました。
▼第二次山縣有朋内閣(第9代総理大臣)
1898(明治31)年11月〜1900(明治33)年10月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:第二次山縣内閣を参照のこと。○主な政策
・文官任用令の改正(1899年3月)・治安警察法の公布(1900年3月)
・議員選挙法改正(1900年3月)・・・立候補の資格を直接国税15円納付から10円へ引き下げ
・軍部大臣現役武官制の実施(1900年5月)
・義和団の乱(北清事変)への対応(1900年6月)
○総辞職の理由
憲政党が離反したたため○解説
続いて発足した山縣内閣は、歴代内閣の懸案だった地租増徴について、憲政党と政策の妥協を行うことで実現。さらに、文官任用令を改正します。これは従来、中央省庁の次官や局長、府県の知事などは、勅任官と言って、天皇の勅命で任命されるため、特に第一次大隈内閣では熾烈なポスト争いがあったのですが、とにかく政党の人間を排除すべく、今と同じように試験に合格した官僚から選ぶよう、制度を改正しました。
それから治安警察法を制定し、次第に高まりを見せていた労働運動の規制を強化。
さらに軍部大臣現役武官制を導入し、陸軍大臣、海軍大臣は現役の軍人しかなれないようにしました。これによって、軍の意向に沿わない人間が総理を継続しにくいようにします。仮に陸軍大臣や海軍大臣に辞任され、後継者も拒否されてしまうと、総理辞職しかなくなってしまうのです。
・・・こんなことをやれば、当然衆議院は猛反発。特に憲政党としては裏切られた感が強いでしょう。1900年5月に憲政党は山縣内閣との提携を打ち切ります。そして山縣内閣は政権運営に行き詰まり、山縣首相は辞職しました。
○義和団の乱
ところで、この1900年は中国で大きな事件が起こります。義和団の乱(北清事変)です。欧米列強によって次々と領土や権益が削られていくことに怒りを覚えた民衆が、「扶清滅洋」(ふしんめつよう/清を扶助して西洋を滅ぼす)を掲げて大規模に反乱が起き、北京に通じる鉄道の破壊やキリスト教の教会の破壊などを行います。
紫禁城
北京の各国公使は、清に対して反乱の鎮圧を要請しますが、清の政治の実権を握る西太后(せいたいごう)は、これをチャンスと考えて列強に宣戦を布告。しかし、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア・イタリア・日本の8カ国連合軍の前に清の軍勢は敗北し、8月14日に北京を陥落。西太后は西安に逃れました。
義和団も間もなく連合軍の前に敗北し、清は多額の賠償金などを含んだ辛丑条約(しんちゅうじょうやく)を結ばされ、著しく凋落していくことになります。
日本はこの義和団の乱に対して、イギリスの要請を受けて2万2000人の兵力を送り込み(列強全体では4万7000人)、西洋に対して「欧米列強の中国権益は日本が守りますよ」と極東の憲兵としての立場をPR。迫り来るロシアの脅威に対して、日本の有益性を訴えることに成功しました。
▼第四次伊藤博文内閣(第10代総理大臣)
1900(明治33)年10月〜1901(明治34)年6月
○閣僚名簿
・首相官邸ホームページ:第四次伊藤内閣を参照のこと。○主な政策
・八幡製鉄所の操業を開始旧・八幡製鉄所東田第一高炉跡
清からの賠償金は日本の軍事力増強を中心に使われます。このうち、1901年に日本初の官営製鐵所として誕生した八幡製鉄所の東田第一高炉も賠償金の使い道の1つ。現存するものは第10次改修高炉であり、1972(昭和47)年まで使用されました。
○総辞職の理由
閣内不一致○解説
同じ長州出身の元勲でも、その政治的思想や行動は正反対の伊藤博文と山縣有朋。山縣は陸軍の力と、長州閥の力を背景にネットワークを形成し、政党政治を嫌い抜いてきました。一方、伊藤博文は必ずしも長州の力には頼らず、その場に応じた柔軟な政治手法を取り、第三次伊藤内閣が崩壊すると、自らの政党を組織することにしました。こうして1900(明治33)年9月15日、伊藤博文は立憲政友会の結党を帝国ホテルにて宣言。「党」ではなく「会」としたのは、財界にも広く参加を呼びかけたものですが、実際には伊藤系の官僚と、山縣内閣から離反した星亨らの憲政党が合流して誕生したものでした。また、憲政本党の最高幹部であった尾崎行雄も伊藤博文に共感し、立憲政友会に参加しました。
伊藤博文は立憲政友会設立の趣旨を、国家の利害を第一義とし、私利利害を捨てて行動するものと強調しています。
ところが政党嫌いの山縣有朋。表立って伊藤博文と喧嘩は出来ませんが、組織が整わないうちに政権を担当させて、潰してやろうと画策します。折りしも政権運営に行き詰っていたところ、政権を手放して、伊藤博文を次の総理に指名。
第四次伊藤内閣は外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣以外を立憲政友会の会員で固めて発足。そこへ、山縣は貴族院を使って、伊藤内閣が求めた義和団の乱の対応や、軍艦建造のための増税法案に反対させて、伊藤の政権運営に立ちふさがります。さらに山縣の狙い通り、内政の方針を巡って党内で対立。こうして第四次伊藤内閣は長続きせず、閣内不一致で崩壊しました。
参考文献・ホームページ
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社)
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
コトバンク(朝日新聞社) http://kotobank.jp/
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