第73回 日露戦争

○奇襲作戦で幕を開ける

 さて、ロシアとの戦いですが、戦いの舞台は韓国と中国東北部の満州、そして日本海がメイン。
 他人の国でお互いに戦っているという、住民にはなんとも余計なお世話の・・・(以下略。

 1904(明治37)年2月6日、東郷平八郎(1848〜1934年)を司令長官とする連合艦隊は佐世保港(長崎県)を出港し、このうち第4艦隊(巡洋艦4隻)が主力を離れて、陸軍の先遣部隊の輸送船を護衛し、韓国の仁川に陸軍部隊を上陸。そして仁川港外にて、ロシアの巡洋艦コレーツとワリャーグの2隻と戦闘に入り、これらを自沈させます。

 さらに2月8日の深夜、駆逐艦隊が旅順港口に接近し、暗闇(くらやみ)の中で旅順港口近くのロシア艦隊を魚雷で奇襲攻撃。戦艦2、巡洋艦1を大破させます。

 そして2月10日に日本はロシアに宣戦布告。さらに、韓国に対しては2月23日に日韓議定書を締結。
 主な内容としては、
 (1)韓国政府は日本政府の「忠告」という形で内政干渉をみとめる。
 (2)日本政府は韓国の独立と領土保全を保障する。
 (3)第三国の侵害や内乱によって韓国に危険があるときは、その保全のため日本が軍略上必要な土地の所有権をえることをみとめる。

 というもので、要するに(3)を認めさせることで、日露戦争や、韓国における日本への抵抗運動において、日本が韓国の土地を自由に使えるようにし、補給線を確保できるようにしたわけです。韓国政府はこれを認めざるを得ませんでした。

○旅順港閉塞作戦(2月24日、3月27日、5月3日)

 続いて、日本の連合艦隊は旅順にいるロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)の撃破に取り掛かります。
 これに対しロシアは、世界的に高名な軍人のステパン・マカロフ中将(1848〜1904年)を司令長官に送り込み、さらに本来は西ヨーロッパに展開するバルチック艦隊を援軍に向かわせました(実際に出港したのは10月15日)。そしてマカロフ中将は連合艦隊との戦いを避け、要塞化した旅順港でバルチック艦隊との合流を待つのでした。合同して攻めて来られると、連合艦隊は圧倒的に不利になります。

 そこで連合艦隊の有馬良橘(ありまりょうきつ)中佐は、アメリカとスペインが戦った米西戦争でのサン・チャゴ閉塞作戦を参考に、幅が約90mと狭い旅順港の航路出口に船を沈めて、これを塞ぎ、船を出港できないようにしよう、という旅順港閉塞作戦を発案。

 志願者を募り、2月24日、3月27日、5月3日の3回にわたって実施しますが、いずれもロシア側の厳しい攻撃の前に、目標地点に船を沈めることが出来ず、失敗に終わりました。ただ第2回閉塞作戦の後、マカロフ中将は連合艦隊との小競り合いの中で、日本側の仕掛けた機雷により旗艦が沈没し、戦死しました。戦果があったように見えますが、連合艦隊も5月15日に機雷で戦艦2隻を失っており、大きな痛手になります。

 また、第2回閉塞作戦で閉塞船「福井丸」を指揮し、戦死した広瀬武夫少佐(1868〜1904年)は、戦後に軍神と称えられました。

○鴨緑江渡河作戦(5月1日)

 一方、大山巌大将(おおやまいわお 1842〜1916年)を総司令官とする陸軍は、黒木為大将(くろきためもと 1844〜1923年)を司令官とする第1軍4.3万人が鴨緑江(おうりょくこう)を渡る際に対岸のロシア軍1.8万人と交戦し、これに圧勝します。

○南山の戦い(5月25日・26日)

 続いて奥保鞏大将(おくやすかた 1847〜1930年)を司令官とする第2軍3.6万人が、南山を守るロシア軍(4.1万人)を連合艦隊の援護を受けて攻撃。勝利はしたものの約4300人の死傷者を出し、大きな痛手となります。

○得利寺の戦い(6月15日)

 さらに第2軍は瀋陽を目指しますが、南下してきたロシア軍4.1万人と交戦。激しい攻防戦の末に、これも撃退します。

○黄海海戦(8月10日)

 今度は海軍に目を転じまして、ロシアの旅順艦隊はついにウラジオストクに向けて出撃。連合艦隊と黄海で戦闘に入ります。連合艦隊はこれに大打撃を与えますが、完全撃破とはならず、多くの艦船が旅順に戻ってしまい、再びにらみ合い状態になります。

○第1回旅順総攻撃(8月19日〜24日)

 そこで乃木希典大将(のぎまれすけ 1849〜1912年)を司令官とする陸軍の第3軍が、陸上より旅順を攻撃することになります。乃木大将は日清戦争のときも旅順を攻略しており、この経験から力攻めで攻撃を開始します。しかし、かつてより遥かに堅固になった旅順要塞の前に、1万6000人の死傷者を出す大損害を受け、失敗に終わりました。

○遼陽会戦(8月24日〜9月4日)

 一方、第1軍と第2軍(合計13.5万人)は遼陽にて、ロシア軍22.5万人に決戦を挑みます。激しい攻防戦の末に勝利しますが、ロシア軍を率いるアレクセイ・クロパトキンは損害が広がる前に撤退し、決定的な損害を与えることは出来ませんでした。

○沙河会戦(10月8日〜17日)

 そして態勢を整えたアレクセイ・クロパトキン率いるロシア軍(22.2万人)は第1軍に攻撃を仕掛けます。しかし、第1軍はこれを防ぎ反撃に転じ、再びロシア軍は損害が広がる前に撤退します。

○第2回旅順総攻撃(10月26日〜10月31日)

 一方、旅順では再び第3軍とロシア軍と激しい攻防戦を繰り広げ、双方とも大きな損害でますが、旅順攻略には至らず、総攻撃は失敗に終わりました。

○第3回旅順総攻撃(11月26日〜12月5日)

 なかんか旅順を攻略できない状況に、大山元帥は満州軍総参謀長の児玉源太郎大将(1852〜1906年)を第3軍に派遣し作戦に介入させます。さらに大本営は旅順の正面突破は一先ずおき、旅順を高い場所から砲撃する作戦に変更を指示。このため通称「203高地」を巡って、日本とロシアで激しい攻防戦が繰り広げられました。

 そして6万4000人もの兵力が投入され、1万7000人という死傷者もの死傷者を出して第3軍は203高地を占領。ここを足がかりに旅順攻略が開始され、引き続き激しい攻防戦を繰り広げながら、ついに勝利。1月1日に旅順司令官のステッセルは降伏しました(実際のところ、203高地を占領したことよりも、ロシア軍の兵力が戦闘で大幅に消耗したことのほうが勝因だったという意見が有力です)。

 ちなみに乃木大将は旅順総攻撃で2人の息子を失い、さらに日本軍全体では5万9000人の死傷者を出すという状況でしたが、戦闘終了後は乃木とステッセルは互いを称え合い、2人と両軍の幕僚が帯剣して並び、仲良く記念写真を撮影。まだこの時代は、武士道や騎士道が残っていたといえます。

○黒溝台会戦(1905年1月25日〜1月29日)

 ロシア軍が、黒溝台を守る秋山好古少将(1859〜1930年)率いる秋山支隊を急襲した戦い。秋山好古はロシア軍の動きを偵察により事前察知していましたが、報告を受けた司令部は「極寒期に大作戦は無い」と致命的な判断ミス。なんと8000人の秋山支隊に、10万人のロシア軍が襲い掛かってきました。しかも、世界最強と呼ばれたコサック騎兵も攻撃してきています。

 そこで秋山少将は塹壕を掘って、秋山支隊の騎兵ごと中に潜んで機関銃射撃を行い、ロシア軍に対抗。ようやく司令部は増援を送り始め、ロシア軍は撤退しました。

○奉天会戦(3月1日〜10日)

 日露戦争の陸上における事実上の決戦。日本は25万人、ロシアは36.7万人もの兵力を投入し激突します。激しい攻防戦の中、相当とも甚大な被害が広がり、クロパトキンは撤退を命令。日本側はこれを追撃しますが、こちらも限界が近づいており、包囲作戦は失敗しました。

 なお、兵力に余力を残しながらも度重なる撤退を続けるクロパトキンは、この後更迭されました。実際のところ、まだまだ呼び兵力や補給を西から送り込む余裕があるロシアに対し、日本は限界が近づいており、危機的状況にあったのでした。ただし、国民には奉天での勝利が高らかに宣伝され、戦争継続の声は高いものでした。

○日本海海戦(5月27日〜28日)

 そしてロシア海軍の切り札であるバルチック艦隊(司令長官:ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー提督)が、長い航海の末についに日本海へ到着。東郷平八郎率いる連合艦隊と戦闘に入ります。

 東郷はバルチック艦隊と連合艦隊がすれ違う状況になるように見せかけて、敵艦の目前で左回頭するというT字戦法(トーゴーターン)を行い、ロシア艦隊の前に出て進路を妨害。そして、精度の高い砲撃で次々とロシア艦を撃破。なんと30分で7隻を撃沈しました。

 その後も、連合艦隊はバルチック艦隊の艦船を次々と沈めて、38隻中19隻が撃沈、2隻が自沈、5隻が拿捕、9隻が中立国で武装解除、3隻のみがウラジオストクに撤退と、ほぼ全滅に追い込みます。一方、連合艦隊で失ったのは水雷艇3隻のみで、これはまさに一方的な勝利でした。

○ポーツマス条約

 勝利はしたものの、日本もロシアも戦争によって疲弊している状態。ここらが潮時でした。

 そこで日本政府は、アメリカ合衆国のセオドア・ルーズベルト大統領(1858〜1919年)にロシアとの講和斡旋を希望します。そして、1905年6月9日、ルーズベルト大統領は、日露両国へ講和勧告書を渡した上で、同月26日にはアメリカ北東部ニューハンプシャー州のポーツマスにて、講和交渉を行うよう指定しました。

 日本全権は、外務大臣の小村寿太郎(1855〜1911年)と、駐米公使の高平小五郎。ロシア全権は元蔵相・伯爵のセルゲイ・Y・ウィッテと、駐米公使のロマン・ローゼンです。

 日本としては日本海海戦の勝利を前面に有利な条件を引き出したいところですが、一方でロシアは極東の海で少々敗北した程度で、まだまだ戦えるぜ!という認識も国内に多く、条件をめぐって激しく対立します。しかし、何とか決裂は回避し、

 ・日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
 ・ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
 ・ロシアは東清鉄道の内、旅順〜長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
 ・ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。

 ・・・などの内容で妥結し、両国とも10月に批准。日本政府としてはこれでも色々とロシアから獲得できた、と言いたいところでしょうが、日本国内では「あれだけ戦死者を出して、賠償金はゼロかよ!」と猛反発。批准に先立つ9月5日には、日比谷公園で小村外務大臣を弾劾する国民大会が開かれ、警官隊と衝突。

 騒ぎは数万とも云われる市民が首相官邸や政府機関に押しかけ、ついには焼き討ちするなどの暴動にまで発展しました。これを、日比谷焼打事件といいます。こうした状況下、第一次桂内閣は総辞職を余儀なくされました。

参考文献・ホームページ
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
合戦の日本史(安田元久監修 主婦と生活社)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
CG日本史シリーズ 22 明治と文明開化 (双葉社)
日本の歴史20 維新の構想と展開 (講談社)
コトバンク(朝日新聞社) http://kotobank.jp/

次のページ(第74回 桂園時代)へ
前のページ(第72回 初の政党内閣の誕生)へ

↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif