第79回 昭和の始まりと金融恐慌

▼濱口雄幸内閣(第27代総理大臣) 
  1929(昭和4)年7月〜1931(昭和6)年4月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:濱口内閣を参照のこと。

○主な政策

・金解禁(金輸出解禁)を実施し、金本位制に復帰
・緊縮財政と産業合理化
・ロンドン海軍軍縮条約に調印

○総辞職の理由

 右翼に銃撃された浜口首相の容態がしたため

○解説

 田中内閣が総辞職した後、今度は立憲民政党の濱口雄吉総裁に組閣の大命が下りました。
 ・・・それから5時間後、なんと濱口首相は組閣を完了。並々ならぬ意気込みを見せます。そして、幣原喜重郎を再び外務大臣に任命し、国際協調路線を鮮明にし、さらに経済面では元日本銀行総裁の井上準之助を大蔵大臣に任命し、日本だけが取り残されていた金解禁(金輸出解禁)に向けて動き出します。

 高知県出身で大蔵省の官僚を経て政治家になった浜口首相。その風貌から「ライオン首相」として親しまれ、発足当初の国民からの期待は高く、1930(昭和5)年に衆議院を解散して総選挙を行った結果、解散時の171議席から271議席となり圧勝し、過半数を確保。一方で、立憲政友会は237議席から173議席に落ち込み大敗しました。

 こうして順風満帆のスタートを切り、様々な施策に意欲的に取り組もうとしましたが、大変な誤算が生じるのでした。

○金解禁をしよう!

 第一次世界大戦以前、主要国の殆どは金本位制(その国の通貨と一定量の金と等価交換の関係にあるように法的にさだめられた制度)でした。ところが大戦による経済混乱のため、日本も含めて機能を停止していました。その後、各国共に金本位制に復帰する中、日本だけが大戦後の反動不況や震災による不況に苦しむ中で延期中。

 こうした中、濱口首相と井上蔵相は金解禁(金の輸出を自由化)を行って金本位制に復帰しようと考えます。・・・では、なぜ金本位制への復帰が必要なのか。井上蔵相によると、こんなことらしいです。
1.国際経済の基礎は金貨本位(=金本位制)
2.通常は、貿易の輸出入によって日本の金が出たり入ったりして、金の量は自然に調節される。
3.ところが大戦後に金本位制をストップしたので、この調節が効かない。
4.今までは大戦中にヨーロッパで利益を上げて、金の準備が沢山あったので、少々調節が効かなくても大丈夫だった。ところが震災で諸外国から輸入を増やしているうちに、どんどんなくなった。
5.すると日本の貨幣価値が下落して、急激な円安に。
6.為替レートが安定せず、物価に悪影響を及ぼしだした。
7.早く金解禁をしよう。
   ということだそうです(間違っていたら本当にごめんなさい)。 そして、1930(昭和5)年1月に金輸出を解禁しました。これで日本もめでたく世界経済に復帰、めでたしめでたし・・・。


○世界恐慌

 ・・・とはならないのですから、経済は凄く難しい。
 実は少し前の1929(昭和4)年10月24日に、アメリカのニューヨーク、ウォール街の株式市場が史上最大の暴落を襲います。「暗黒の木曜日」と呼ばれるほどの現象は、一時は安定の兆しを見せるも、29日にも再び大暴落し、アメリカ経済をどん底に陥れるのです。この経済不況は世界中に拡大したので、世界恐慌と呼ばれます。

 日本が金解禁をするあたりまでは、この影響がどれほど来るのか不透明でしたが、やがて日本、アメリカ、イギリスなど世界各国で輸出入が激減。井上蔵相が緊縮財政、デフレ政策を取っていたこともあり、1930(昭和5)年の貿易総額は対前年比31%、GNP(国民総生産)は前年比で89%にまで落ち込み、そして不況の波は農村にまで押し寄せた上に、農産物が豊作過ぎて価格が暴落。工場では賃金に引き下げも実行され、賃下げ反対のストライキが起こるなど労働争議も多発。

 この深刻な不況を、昭和不況といいます。ちなみに翌1931年は、北海道や東北を中心に冷害が発生して大凶作。しかも都市の失業者が農村に戻り、益々農村の経済状態が悪化しました。これを農業恐慌と言います。


○ロンドン海軍軍縮会議

 1931(昭和6)年4月22日、ロンドンにおいてイギリス、アメリカ、日本の3カ国における補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)について、ロンドン海軍軍縮条約(正式には1930年ロンドン海軍条約)が結ばれました。

 日本側の全権は、若槻禮次郎元首相と、財部彪(たからべたけし)海軍大臣。日本では海軍軍令部(海軍全体の作戦・指揮を統括する機関)が反対する中で、このような内容で決定しました(全て排水量が基準です)。

  アメリカ イギリス 日本 比率
重巡洋艦 18万トン 14万6800トン 10万8000トン 10.00: 8.10:6.02
軽巡洋艦 14万3500トン 19万2200トン 10万0450トン 10.00:13.40:7.00
駆逐艦 15万トン 15万トン 10万5500トン 10.00:10.00:7.00
潜水艦  5万2700トン
 5万2700トン
 5万2700トン
10.00:10.00:10.00
合計 54万1700トン 52万6200トン 36万7000トン  

 これに対して、野党の立憲政友会は枢密院と共に「天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だ!」と、政府を攻撃。いわゆる統帥権干犯問題(とうすいけんかんぱんもんだい)です。これは、政党自らが軍のことは天皇が決めることだから口を出すな!と言っているようなもので、この後に軍が暴走するようになる一因となりました。

○濱口首相、撃たれる!

 1930(昭和5)年11月、岡山で開催中の陸軍大演習を視察に行くべく、東京駅の第4ホームにいた濱口首相が、右翼団体愛国社党員の佐郷屋留雄に銃撃されて重傷を負います。犯行動機は、ロンドン海軍軍縮条約において統帥権干犯を濱口首相が犯している、というものでした。

 濱口首相は幣原外相を総理代行として議会を乗り切ろうとしますが、野党の政友会の攻撃は厳しく、瀕死の体を押して復帰。しかし持ちこたえられず1931(昭和61)年4月に総辞職し、そして濱口首相は4ヵ月後に亡くなりのでした。

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江戸東京博物館の展示物解説

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