第87回 吉田内閣の時代

▼片山哲内閣(第46代総理大臣) 
  1947(昭和22)年6月〜1948(昭和23)年2月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:片山内閣を参照のこと。

○主な政策

・労働省設置(47年9月)
・改正刑法公布(47年10月)
・警察法、過度経済力集中排除法、改正民法公布(47年11月)

○総辞職の理由

 与党である日本社会党の一部が片山内閣に反旗を翻したため

○解説

 日本国憲法下で初めて行われた選挙で、143議席を確保し第一党になったのは片山哲(かたやま てつ 1887〜1978年)率いる日本社会党でした。過半数には達していなかったため、民主党、国民協同党と連立して片山内閣を組閣します。

 さて、片山内閣では新しい憲法の下に、民法や刑法も新しいものへと変わりました。たとえば刑法の場合、皇室に対する罪や姦通罪などが改正されています。また片山内閣は、戦前に強大な力を持っていた内務省や司法省の解体の実施も行うなど、行政組織の改革にも取り組んでいます。

 しかし、内政方針を巡って閣内が対立。たとえば、平野力三(農相)が生産者米価の値上げを強硬に主張すると、和田博雄(経済安定本部長官)は物価体系の維持を訴えて対立。

 片山首相はこれを調整することが出来ず、結局は平野農相を嫌ったGHQ民生局が、平野農相の解任を指示。ところが、後任を巡って社会党の左派が反発し、さらに片山内閣の出した予算案に造反して否決に追い込んでしまいます。こうして、片山内閣は僅か9ヶ月で瓦解しました。

○皇族の話

 ちなみに話は変わりますが、10月13日に11宮家の皇族51人が皇族ではなくなり、平民となりました。これによって皇族も、ごく限られた人間に限定されたことになります。

▼芦田均内閣(第47代総理大臣) 
  1948(昭和23)年3月〜10月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:芦田内閣を参照のこと。

○主な政策

・海上保安庁法の公布(4月)
・政令201号公布で公務員の争議権を剥奪(7月)
・中小企業庁設置法の公布(7月)
・国家行政組織法の公布(7月)
・(旧)教育委員会法の公布(7月)
・地方財政法の公布(7月)

○総辞職の理由

 昭和電工疑獄で逮捕者が出たため

○政党の動き

1948年3月、自由党と、民主党の離党者で組織する民主クラブが合同し、民主自由党が結党(総裁:吉田茂)。
         衆議院152人で第一党に。

○解説

 続いて、3党連立の枠組みは変えずに、日本民主党総裁の芦田均(あしだひとし 1887〜1959年)が首相になります。芦田は京都府天田郡中六人部村(現福知山市)の出身。1932(昭和7)年1月、外交官から衆議院議員になりました。

 そして美濃部達吉の天皇機関説問題では美濃部氏を擁護したり、大政翼賛会運動には参加せず、非公認で当選するなど、筋金入りのリベラリストとして知られていました。

 戦後は幣原喜重郎内閣では厚相を務めたほか、吉田茂内閣の衆議院憲法改正委員長を務めて日本国憲法制定に尽力。片山内閣では外相・副総理を務めました。ちなみに、片山哲とは大学時代の同級生。芦田が亡くなった時は、片山が追悼演説を行い、その政治姿勢を高く評価しています。

 ・・・なのですが、在任期間を見てわかるとおり僅か7ヶ月で退陣。
 (それでも、ごらんのように多数の重要法案を成立させています。また 前ページでも少し触れましたが、マッカーサーの書簡によって芦田内閣は政令201号を出し、公務員から団結権のみを残し,団体交渉権と争議権を剥奪しました。)

 背景にあったのは、昭和電工疑獄と呼ばれる事件でした。復興金融金庫から昭和電工への融資をめぐる贈収賄事件のことで、1948(昭和23)年6月に昭和電工社長の日野原節三が逮捕。さらに、重政誠之(元農林次官)、福田赳夫(大蔵省主計局長)、栗栖(くるす)赳夫(経済安定本部長官)、大野伴睦(民主自由党顧問)など官僚・政治家が逮捕されます。

 そして10月、連立を組む社会党の西尾末広(前副総理)が逮捕されたのだから、さあ大変。芦田内閣は総辞職を選択しました。しかし、この昭和電工疑獄は約2000人が事情聴取を受け、現職国会議員を10人を含む64人が逮捕(芦田首相も総辞職後に逮捕)されますが、なんと最終的に有罪となったのは日野原社長と栗栖赳夫だけ。

 実はこの時期、GHQの内部で民生局VS参謀第二部(G2)を中心とする反民生局という対立が起こっており、民生局と関係の良かった芦田内閣が権力闘争に巻き込まれたのでした。

○海上保安庁の設置



巡視船 しきしま PLH31
芦田内閣の下で誕生した海上保安庁。
人命・財産の保護、法律違反の予防・捜査・鎮圧、船舶交通の安全を守るために活躍しています。

▼第2次〜第5次吉田茂内閣(第48代〜第51代総理大臣) 
  1948(昭和23)年10月〜1954(昭和29)年12月

○閣僚名簿

・首相官邸ホームページ:第2次吉田内閣第3次吉田内閣第3次吉田内閣第3次吉田内閣(第1次改造)第3次吉田内閣(第2次改造)第3次吉田内閣(第3次改造)第4次吉田内閣第5次吉田内閣を参照のこと。

○主な政策

・経済安定九原則指令(48年12月)
・ドッジ=ライン発表(49年3月)
*朝鮮戦争による特需景気(50年6月〜)
・警察予備隊設置(50年8月)
・サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約調印(51年9月)
・防衛庁、自衛隊発足(54年7月)

○総辞職の理由

 (第5次吉田内閣の場合)野党による吉田内閣不信任案を提出に対して、周囲の説得により吉田首相は解散ではなく内閣総辞職を選択したため

○政党の動き

1950年3月1日・・・民主自由党が民主党の一部を吸収して自由党が結党。
     4月28日・・・残る民主党のメンバーと国民協同党、新政治協議会が合同して国民民主党が発足。
    (最高委員長:苫米地義三。野党第一党になりますが、それでも自由党が圧倒的多数を占める国会の中では、
     67人の少数勢力で発足)
1951年・・・・・・・・・・社会党が右派社会党(委員長:河上丈太郎)と左派社会党(委員長:鈴木茂三郎)に分裂。 1952年2月8日・・・国民民主党、農民協同党、新政クラブが合同して改進党が結党。
             (総裁:重光葵、幹事長:三木武夫)。
1953年3月18日・・・自由党の一部から鳩山一郎を総裁に分派自由党が結党

○解説


 芦田首相の次は、衆議院第一党に成長していた民主自由党総裁の吉田茂が首相になりました。ただ、その前段階としてGHQ民生局のケーディス次長とウイリアムズ課長が、第2次吉田内閣発足阻止を画策。山崎猛(民主自由党幹事長)を首相にした連立内閣を促します。

 これに対し、マッカーサーはこの動きには関知していないとのことで、民主自由党内部で協議し、山崎が議員辞職し、首相指名の権利を喪失させます(ちなみに次の選挙で返り咲き、第3次吉田内閣で閣僚を務めています)。こうして、民生局の画策は失敗し、ごらんのような吉田茂による長期政権が誕生しました。

 ちなみに、麻生太郎元総理は吉田茂の孫。特徴的なしゃべり方でしたが、吉田茂といえば更に過激発言連発。「不逞の輩(やから)」「曲学阿世(きょくがくあせい)」「バカヤロー」などの問題発言を連発し、その政治手法はワンマン政治として批判されますが、ご覧の通りの長期政権でした。

 ちなみに、バカヤローと言ってしまったのは1953(昭和28)年2月28日の衆議院予算委員会。右派社会党の西村栄一議員との質疑応答中、席に着いた吉田が小声でバカヤローと言ったのをマイクが拾ったのでした。これは衆議院の解散にまで自体が発展し、俗にバカヤロー解散と呼ばれます。

○経済安定九原則

 当時の日本は、激しいインフレに見舞われており、経済の安定化が求められていました。そこで、GHQは経済安定九原則を提示。総合予算の均衡、徴税計画の促進、信用拡張の限定、賃金の安定、物価統制の強化、外国為替管理の強化、輸出増加への施策、重要国産品の増産、食糧集荷の能率向上の9つから成ります。

 政府は、この原則に従って政策を立案していきます。

○ドッジ=ライン

 そして、デトロイト銀行頭取のジョゼフ・ドッジが1949(昭和24)年に来日。
「日本経済の状態は政府の補助金とアメリカの援助の2本の竹馬にのっている竹馬経済だ」
 と、当時の日本経済を評し(当時の流行語になったそうです)、1ドルを360円の単一為替レートに設定、赤字を認めない収支均衡予算の編成、補助金の削減などの政策を指導し、金融の安定と引き締めを行います。これを受けて池田隼人蔵相は、収支ピッタリの予算を作成し、議会を通過させます。

 さらに同じ年、コロンビア大学教授カール・シャウプを団長とするアメリカの税制調査団が報告書(シャウプ勧告)をまとめ、税負担の公平と恒久的税制の確立を図ります。すなわち、国税は直接税を中心とし、所得税に比重を置き、地方税は地方自治の自立を促すために独立税方式とするなどの政策です。

 これらの実施により、ようやくインフレは進行が停止し、大企業を中心に生産は回復しました。しかしながら、1ドル360円は輸出業者にとっても、輸入業者とっても好ましい水準ではなかったようで、中小企業の倒産が相次ぎ、さらに官庁や企業の人員整理により失業者は増大し、労働争議は激化するなど、これはこれで不況を招いてしまっています。


○中華人民共和国の成立

 日本軍が去った後の中国では、毛沢東率いる中国共産党と、蒋介石率いる国民党(中華民国)が内戦を続けていました。そして、農民の支持を得た中国共産党は勢力を次々と拡大し、アメリカの支援を受ける中華民国に各地で勝っていきます。そして、1949(昭和24)年10月1日、毛沢東は中華人民共和国の成立を宣言。

 一方で蒋介石は台湾に逃れ、政権を存続。今でも大陸側と台湾では政治組織が別なのは、皆さんご存知のことと思います。そして、この中華人民共和国という共産主義国家の成立は世界の大きなインパクトを与えます。

○朝鮮戦争と特需景気

 さて、朝鮮半島では北緯38度線を境に、北がソ連、南がアメリカの管理下におかれます。そしてアメリカ管理地では、1948(昭和23)年8月に、李承晩(イ・スンマン 1875〜1965年)を大統領とする大韓民国(韓国)の独立が宣言。その翌月には、ソ連管理地で金日成(キムイルソン 1912〜1994年)を首相とする朝鮮民主主義人民共和国(いわゆる北朝鮮)の樹立が宣言。

 アメリカとソ連の二大陣営の争いを代理する形で、38度線を境に両国はにらみ合うようになりました。
 そして1950(昭和50)年6月25日、ついに朝鮮人民軍は38度線を突破して南部へ侵攻。これに対し、アメリカのトルーマン大統領の働きかけで、国連安全保障理事会は北朝鮮非難決議を採択、27日には国連加盟諸国に対し韓国への軍事支援を勧告します。

 ちなみにソ連は、国連の中国代表権を台湾の中華民国にするか、大陸の中華人民共和国にするか、扱いを巡って会議をボイコットしていました。当時は、まだ中華民国に国連の中国代表権がありまして・・・。

 そして朝鮮半島では、なんと6月28日にソウルが北朝鮮によって陥落。これに対し、7月1日に在日米軍が韓国南部の釜山に上陸して反抗を開始します。

 さらに7月7日、国連は国連軍総司令部の設置を決定し、マッカーサーを国連軍総司令官に任命。米軍を中心に16カ国からなる国連軍が編成されました。しかし8月下旬、韓国は釜山や大邱の一角にまで追い込まれるという事態に。これに対しマッカーサーは、ソウルの西にある仁川(インチョン)から軍を上陸させ、北朝鮮軍を挟撃。9月15日、ソウルの奪還に成功しました。

 パワーバランスは逆転し、19日は北朝鮮の首都である平壌を国連軍が占領。

 マッカーサーはトルーマン大統領の「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」と言う命令を無視して、北上を続けます。そして、次第に北朝鮮を追い詰めた・・・かに見えたところで、なんと中国が北朝鮮側に立って参戦し、戦いは再び泥沼化し、一時はソウルも再び北朝鮮の手に落ちました。その後、戦いは一進一退に陥り、マッカーサーは中国への空爆、核攻撃を進言。

 これにはトルーマン大統領は「ソ連の参戦を招きかねない」として反対し、マッカーサーは解任され、日本からも去ることになります。後任はマシュー・リッジウェイ大将(1895〜1993年)でした。

 結局、1951年6月23日にソ連のヤコフ・マリク国連大使が休戦協定の締結を提案。紆余曲折の末、7月27日に、38度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれて、現在も停戦中・・・というわけです。

 さて、この朝鮮戦争において重要な役割を果たしたのが日本でした。日本の産業界は、朝鮮戦争関連の物資生産の拠点となり、特需と呼ばれる好景気になりました。それまで、戦後の長い不況に苦しんでいた日本は、ようやく経済の建て直しに光が見えてきたのです。

○レッドパージ

 ところで、朝鮮戦争のさなかである、1950(昭和25)年7月18日。マッカーサーは日本における共産主義活動の取締りを強化し、まずは「アカハタ」を停刊させ、さらに7月24日には新聞協会の代表に共産党員と同調者の追放を勧告。新聞各社はこれに従い、50社から702人(従業員の2%)が解雇されました。

 これに便乗して、労働争議の多発という問題を抱えていた電力、運輸、石炭、私鉄など各社も組合指導者の解雇を行い、なんと1万人が職を失ったそうです。さらに、政府も公務員約1100人の追放を決定。こうした追放の動きを、レッドパージといいます。ちなみに赤色=社会主義、共産主義のイメージ。パージは、追放という意味です。

 これに対して学生で組織する全学連がレッドパージ反対運動を展開し、試験のボイコットのほか、警官と衝突します。
 次第に学生運動が盛んになってきたことを表す出来事でした。

○公職追放の解除

 共産主義者を排除する代わりに、軍国主義的だとして公職追放を受けていた人々の処分が解除されます。
 マッカーサーからリッジウェー体制に移行したGHQは、1951(昭和26)年6月20日、三木武吉石橋湛山ら約2900人の公職追放を解除。さらに6月30日、地方レベルで約6万6000人の追放が解除。さらに8月6日、鳩山一郎ら1万3000人の追放を解除。そして、8月16日、旧軍人ら約1万1000人の追放が解除されるのでした。

 先ほど名前を紹介した方々、早速政治活動へと復帰していきます。

○サンフランシスコ講和条約

 こうした国際情勢と、国内政策の中で、日本は独立と国際社会への復帰が実現。

 1951(昭和26)年9月8日、日本と連合国48カ国との間でサンフランシスコ講和条約(平和条約)が結ばれたのです。日本側の全権は、吉田茂首相でした。講和条約の内容は、
 ・日本と連合国との戦争状態はおわり、日本は主権を回復する。
 ・日本は個別的・集団的自衛権をもち、集団安全保障条約に参加できる。
 ・日本は朝鮮の独立を承認し、台湾・澎湖(ほうこ)島・千島列島・南樺太(サハリン)を放棄
 ・南西諸島(沖縄など)や小笠原諸島をアメリカ合衆国の信託統治に置くことの承認
 ・賠償は役務賠償のみとし、賠償額は個別交渉する。
 というものでした。この講和条約、アメリカが草案を作成し、ほかの国の意見は取り入れていません。

 こういう方針ですから、日本と講和条約を結ばなかった国もあります。代表例と理由はこんな感じ。

 中国・・・そもそも講和会議に呼ばれなかった。アメリカは中華民国、イギリスが中華人民共和国を承認していたため。
 インド、ビルマ、ユーゴスラビア・・・アメリカ主導の講和に反対
 ソ連・・・会議は出たけど、中華人民共和国の不参加を理由に、チェコスロバキア、ポーランドとともに調印せず。
 (チェコスロバキア、ポーランドは共に、当時はソ連影響下の社会主義国家です)

 と、こんなわけです。これらの国とは、後に個別に平和条約を結んでいくことになります。
 たとえばインドとは、日印平和条約を翌年に結んでいます。

 ちなみにソ連(現在のロシア)とは国交は回復していますが、この中で領土問題は合意に至らず。さらに、未だに平和条約は締結していません。そんなわけで、いわゆる北方四島の帰属問題とは別に、本来であれば千島列島や南樺太の帰属問題についても、両国間で合意したものはありません。

 また、講和条約や日本の再軍備を巡って社会党が分裂。左派社会党(委員長:鈴木茂三郎)、右派社会党(書記長:浅沼稲次郎)が誕生しています。

○日米安全保障条約

 サンフランシスコ講和条約に続いて、日米安全保障条約が締結されました。
 アメリカとしては、日本独立後も東アジアに対する影響力を残しておかないと、いつ東アジア全体が社会主義、共産主義勢力に飲み込まれてしまうか分りません。そのためには、日本に引き続き軍事基地を置くことなのですが、どういう理由で置くか、これが問題でした。そこで、池田隼人蔵相はドッジの会見の中で、日本が米軍基地を望む形にすればどうか、という吉田首相の提案を伝え、交渉が進展。こうして日米安全保障条約が結ばれたのでした。
 

○警察予備隊の創設から自衛隊へ

 順番が前後して恐縮ですが、一時は日本の軍備を徹底的に取り払ったGHQも、朝鮮戦争が勃発すると、その2週間後にマッカーサーが警察予備隊7万5000人の創設を指示し、事実上、日本は再び軍事力を持つことが許されます。これは、朝鮮に出動中の在日米軍の代わりに、日本の治安を維持することを目的としています。

 さらに1952(昭和27)年10月、警察予備隊は保安隊に、海上保安庁の海上警備隊を警備隊と改め、両組織を統括する機関として保安庁が設置されます。先の話になりますが、1954(昭和29)年に保安隊は陸上自衛隊、警備隊は海上自衛隊、さらに航空自衛隊が発足し、防衛庁が誕生。現在のような体制へと変わっていきます。
(ちなみに2007年に防衛庁は防衛省となりました)

○吉田茂VS鳩山一郎

 さて、元々は鳩山一郎が公職追放を受けたことで、吉田茂が第一次吉田内閣を組閣し、さらに第二次吉田内閣以降は長期政権を続けていました。ところが、鳩山一郎いわく、元々は吉田茂との間に「鳩山が政界復帰したら、政権を渡す」との密約があったとのこと。ところが、吉田茂は「そんなことは知らん」とし、長く政権を担当していました。

 うむ、何か孫の鳩山由紀夫とよく似てますな。

 これに反発した鳩山一郎は、先ほど紹介したバカヤロー発言を気に提出された、野党による内閣不信任案を気に、1953年3月18日に三木武吉、河野一郎、石橋湛山ら鳩山派22名と共に自由党を分派。不信任案に賛成し、不信任案は可決されました。で、吉田首相は衆議院を解散します(バカヤロー解散)。

 しかし、衆議院選後に鳩山一郎らは自由党に復帰。鳩山は吉田茂からの政権禅譲を期待していましたが、相変わらず吉田茂の政権担当意欲は消えないまま。

 うむうむ、何か孫の鳩山由紀夫とよく似てますな。

 さすがに「これは見込み違いだった!」と、鳩山一郎は再び自由党を出て、1954(昭和29)年11月24日に自由党の分派、改進党、日本自由党が合同して日本民主党が結党されました(総裁:鳩山一郎、副総裁:重光葵、幹事長:岸信介)。衆議院121、参議院19人の勢力です。

 折しも造船疑獄という贈収賄事件で吉田内閣に逆風が吹く中、日本民主党は内閣不信任案を左右社会党と提出し、可決の見通しとなります。吉田茂は衆議院の解散に踏み切ろうとしますが、池田勇人らの側近が必死に押しとどめ、内閣総辞職を選択しました。自由党の総裁は緒方竹虎となり野党に転落。そして次の首相は、日本民主党の鳩山一郎となりました。

▼参考文献
日本20世紀館 (小学館)
ジャパン・クロニック日本全史 (講談社) 
詳説 日本史 (山川出版社)
結論!日本史2 近現代史&テーマ史編 (石川晶康著 学研)
この一冊で日本の歴史がわかる (小和田哲男著 三笠書房)
読める年表日本史 (自由国民社)
新詳日本史 (浜島書店)
実録首相列伝(学研 歴史群像シリーズ)
外務省ホームページ 日本外交文書 サンフランシスコ平和条約 調印・発効

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