第8回 皆川周太夫・八王子千人同心と
蝦夷地調査物語
担当:大黒屋介左衛門
3.八王子千人同心の蝦夷地開拓
八王子千人同心千人頭原半左衛門は悩んでいた。彼が幹部を勤める千人同心は神君以来の伝統と誇りのある組織だったが、いろいろ問題が山積みだったからだ。 平同心たちは武士と農民の間の地位に不満があった。名字の問題では訴訟沙汰となった 。 自分たち千人頭は城内でのこと細かいしきたりについていけず、失態をやらかした。
商売がうまくいって肥える者もあれば、勤番などの出費がかさんで借金まみれになるも の、借金が返せずに同心株を売り払うものもいる。千人同心といったものの実際は半分 もいるだろうか?そのうえ幕府はことあるごとに人数を減らしていく。 振り返って屋敷を見てみれば、身の振りに困った弟や厄介者(注5)がいる。 はてさていったいどうしたものか・・。 実際の彼の心のうちはわかりませんがおそらくこんな悩みを抱えていたのではないでしょうか?彼には自分たち千人同心の意地も誇りも持っていたでしょうが、現実はそんな ものは彼らを使う「上」の人間には便利だったでしょうが、当の本人たちは歯がゆい思 いをしていたことでしょう。
そんな彼に興味深い知らせが舞い込みます。
『幕府が蝦夷地の開拓を企画しているらしい』
彼にはチャンスと思ったのでしょう。これを我ら千人同心の手で成功させれば我らの名 は天下に響き、我らを百姓と馬鹿にしてきた旗本たちの鼻をあかせる。今までの失態の 数々は鳴りを潜め、弟たちの身を立てることもできると。 早速彼は蝦夷地御用を取り仕切っていた松平忠明に書状を送り、寛政12年ついに認可 されます。
そうして彼は蝦夷地御用の志願者を募り、蝦夷地移住隊第一陣百人を編成します。
これには雇用対策の面もあったので同心たちの子弟、厄介人たちで構成されていました。幕府は移住隊に対し鉄砲を贈ったり、道中の警護をつけたり、同行の役人を心身頑健で 北方勤務の意思も強く家族と熟慮させて選抜した人物をつけたりしたので、原半左衛門はいたく感動したようです。
苫小牧市勇払の勇武津資料館併設の千人同心の慰霊施設 (撮影:大黒屋介左衛門) |
原因は現地の情報不足、食糧不足による栄養失調、甘かった寒冷地対策、不足する日用品、寒冷地農業の未経験など・・・。一年目にして浮腫病、壊血病などで死者・帰国者が 相次いでしまったのです。翌、享和元年(1801)移住第二陣が八王子を出発しますが、こんな有様を聞いていたのか人数は半分にも満たない30人・・。
半左衛門は何とか士気を高めようと巡検に来た上役に入植地まで足を運んでもらったり していますが、どうにもならなかったみたいです。 失敗の原因は幕府にもあります。幕府の蝦夷地政策は一貫性に乏しく、紆余曲折します。また、移住隊は妻子を連れてくるものもありましたが、多くは独身でした。
半左衛門は彼らのために新潟から女性を連れてくるよう幕府に懇願しますが不許可、現地のアイヌ女性も、もちろんダメ。何より幕府は漁業振興に期待を寄せていたので、農業のことなどさして期待してなかったのです。これでは移住隊を引き止めるのは無理ですね。 肝心の開拓事業も作物が寒冷地に適応せず思うように成果が上がりません。
弟新助の勇払隊は地味の乏しい勇払の地での開拓を早々にあきらめ、主力を鵡川に移し『鵡川畑作場』を営みます。ここではある程度の収穫がありましたが、これも長い冬を乗り切るの に十分な量ではありませんでした。そして数年後には鵡川の地も引き払います。現在は この鵡川の入植地の正確な場所もわかりません。 移住隊総計130人の蝦夷地での死者総数は33人にも上ったそうです。
このようにして千人同心による開拓事業は失敗に終わるのですが、完全なる大失敗とは言えないところもあります。なんと言っても蝦夷地開拓の嚆矢を放ったのはまちがいなく彼ら八王子千人同心ですし、この後も蝦夷地に残ったものもいます。そうした人々は 箱館奉行所の役人になったりしました。 ちょっと横道にそれますと苫小牧市は千人同心が縁で八王子市と姉妹都市になってます 。他にも千人同心となじみの深い日光市とも姉妹都市になってます。
ここまでは前置きです。次章から本編、いよいよ主人公皆川周太夫の登場です。
注5・・・厄介な人ではなく、厄介になっている人だろう。おそらくは身の振りに困っ た子弟のさらに子弟と思われる。ある意味厄介な人かもしれない。