○はじめに
恵山文化は続縄文時代前期(2300〜1700年ぐらい前)を代表する文化。
その範囲は渡島半島から石狩低地帯に主に広がってました、もちろん時代によって範囲は限定されますが。
『恵山』の名は1940年名取竹光によって発掘された国指定史跡恵山貝塚に由来してます。この遺跡では縄文晩期とそれより新しい時期の特徴を持つ土器が検出されこれを恵山式と命名しました。しかしこの発掘成果は戦中戦後の混乱で1960年に一部が紹介されるのみで詳細は不明のままこの時期の土器の総称として一般化してしまいました。ですが、1953年に名取と峰山巌らによって発掘が指揮された白老町アヨロ遺跡やその他良好な遺跡の発掘等により大筋で編年が確立するに至ってます。
この土器の最大の特徴は胴体の上半分を横に下半分を縦に走る数条単位で縞模様を形成する縄目文様です。また東北地方北部の土器やその型式変化に関連性が見られることにも特徴があります。もともと縄文以来この東北地方北部と渡島半島では強い類似性が見られることが指摘されてます。先行の亀ヶ岡文化など文化的な一体性があるのですがこの時期、東北北部でいう田舎館式期には決定的な違いが存在しました。それは『コメ』の存在です。田舎館式のある時期この地方の砂沢遺跡や垂柳遺跡では水田が形成されていたのです。
さて、この稲作の問題が出てきたところで、次では恵山文化の生業についてみて見ましょう。
1.恵山文化の生業
縄文晩期から続縄文に入りどのように生業が変化したのか?
前回でもちょっと触れましたが基本的に続縄文文化では縄文以来の狩猟・採集・漁撈をメインとしたスタイルです。ただ、この中で特に狩猟・漁撈に重点が置かれていることに特徴があります。このことは当然恵山文化圏でも通用するわけで具体的には日本海岸の海蝕洞窟や噴火湾岸に多数の貝塚が残されてること、出土品における釣り針、銛といった漁撈具の検出が縄文晩期に比べ増えていること、動物解体用と目される定型的な石製ナイフが多数見つかってること、遺跡の立地がより海岸砂丘に位置する割合が増えている傾向が見られることなどがいえます。
こういった考古学的見地のほかにも理化学的な分析からもそのような傾向がありまして、人骨をアイソトープ分析にかけてたんぱく質の由来となる食物を調べたり、他にも検出された歯の虫歯の割合を調べたりしてます(植物のでんぷん質を多く摂取するスタイルの食生活は虫歯の発生リスクが上がりやすいという研究結果があるのだそうです)。
このように続縄文文化では特にこの中で漁撈への傾倒が指摘されてるわけですがさすがにそれだけではなく、わずかにではありますが雑穀農耕の可能性もあります。上磯町茂別遺跡や余市町大川遺跡からはアサやヒエ、キビといった炭化種子が出土してるといいますし、他恵山文化圏内6遺跡の土壌からソバ属の花粉が検出されてるそうです。
しかしながら、上記のような状況やさらに先述の理化学的分析の結果は漁撈中心という生業形態の説を補強しています。ただし、連続性や展開範囲に問題はあるものの密接な関係にあった東北北部に水稲耕作文化が存在したらしいことは事実ですので、そのことが恵山文化ひいては続縄文文化に影響を与えたであろうことは疑いないので無視していいことではないと思います。
それでは次はこの恵山文化における外来からと思われる文化要素を南北に分けて見てみましょう。
2.他地域からの文化要素
南方由来
・佐渡島産碧玉→碧玉製管玉
・南海産貝製装飾品
・鉄製品
・土製紡錘車
・土器
碧玉製管玉や貝製装飾品は主に土壙墓に副葬した状態で検出されます。ただし貝製装飾品は伊達市有珠モシリ遺跡などに例があるだけで数としてそう多いものではありません。碧玉製管玉はその分布がわずかな例外を除いて石狩低地帯以西に集中しています、また単に装飾品としてだけでなく東北地方における意図的な破砕や剥離といった祭祀儀礼に似た痕跡も認められることから祭祀道具としての性格もあって広く流通したと推察することができます。そして碧玉製管玉の分布に重なるように鉄製品が検出されています。これは碧玉製管玉と鉄製品をもたらしたのがともに南方の弥生文化ではなかったかとの憶測も可能ではないかと思います。
次に土製紡錘車は東北北部からの流入品と見られ、やはり出土例は少ないもののこの遺物の存在は糸をつむぐ技術が本州から入ってきたかもしれないことを示唆しています。最後に土器ですがはじめに説明したように恵山式土器は東北北部との強い関連性が指摘されてます、これも先に述べてますが縄文の昔から津軽海峡は彼らにとって絶対の障壁とはなってません、確か函館のほうの方言には津軽海峡を「しょっぱいかわ」なんていう方言があったとも聞きますしね。
土器に関しては他に伊達市オヤコツ遺跡から検出されたある無頚壺が注目されてます。この壺は器種、文様、胎土の肉眼観察の結果在地の土器の可能性が否定され、東北北部の田舎館式そのものではないかと見られてます。よそから土器が搬入されること自体はぜんぜん珍しくない、むしろよくありますが、この場合注目を引いたのは今は何もないこの壺が持ち込まれたとき中に何が入っていたかです。
しょっぱなに説明したとおり田舎館式のある時期東北北部の一部地域では稲作が行われていました。そう、この中に入っていたのは『コメ』かもしれないということなんですよ。ま〜調理に利用するわけでもない壺に何が入っていたかなんて憶測の域を出るはずもないですけどね、そこはロマンってやつってことで。
(補足)
羅臼町植別川遺跡では、銀装飾を持つ鉄製品が検出されてます。その時期の本州の弥生遺跡では銀製品の検出がまだない時期なので樺太や大陸北方からの流入と見られてます。このように北方ルートからの鉄製品の流入もないわけではありません。
北方由来
まず北方由来の文化要素といっても樺太や大陸北方の文化が直接この恵山文化圏に入ってくることは稀と考えられます。普通は石狩低地帯などでクッションを置いた形でこの恵山文化圏でも広がっていったということですね、あと恵山文化が石狩低地帯でも広がっていく過程でその要素も取り込んでいくという形です。
・琥珀製玉類
・舌状部を持つ竪穴式住居
琥珀は原産地が非常に限られてます。厚田村聚富〜望来の海岸、雨龍川上流域、南樺太東海岸でありまして、このように恵山文化圏からは離れていて外来の文化要素だとわかります。
この装飾品は縄文晩期から石狩低地帯以東で広く分布してまして恵山文化圏の拡大とともに取り入れらた文化要素ではないかと思われます。同じような装飾品として先ほど碧玉製管玉を紹介しましたがこの両方の副葬の事例は極めて少なく白老町アヨロ遺跡26号墓から大量の碧玉製管玉とともに、ぽつんとひとつだけ琥珀製玉類が検出されたというだけです。この排他性には何かしら意味深げなものを感じますね。
舌状部を持つ竪穴式住居は縄文晩期の常呂町栄浦第二遺跡、根室市トーサンポロ遺跡などで出ている遺構が最も古いとされてます、続いて続縄文前期中ごろまでに千歳市ウサクマイ遺跡、深川市北広里3遺跡、江別市旧豊平河畔遺跡などで見られるまで広がり、以後瀬棚町瀬棚南川遺跡で見られるまで広がったと見られます。この住居址の特徴である舌状部は冷機が住居内まで浸透しないようにするための施設ではないかとの仮説があります。
こういった知恵が人や物の交流の中で広がっていったのかもしれないですね。
3.まとめ
以上のように概要ではありますが恵山文化を紹介してみました。
恵山文化は指呼の距離まで水稲耕作文化に近いところにありながら、それを受け入れませんでした。それは気候と技術の限界かもしれませんし、彼らにとって必要性を認められないものだったのかもしれません。そもそも飛び地のように突如花開いたような印象を与えるものですし、それが果たして定着し続いていったものなのかは疑問の残るところです。
ですがこの文化に触れたことによって近隣には大きな影響を与えたのではないかと思います。白老町アヨロ遺跡ではこの時期唯一ではありますが井戸状の遺構が検出されてます、それまでは湧水点の近くや河川といった水資源の有無が集落を形成する上で重要でしたがこのような技術があればもっと自由度が増します、またそれまで自然をそのままに受け入れることが大前提であった中で自ら積極的に自然に働きかけるという発想はとてもショッキングなものだったかもしれないと思います。
とはいえ彼らが生業の中心に捕らえたのは従来どおり、あるいは従来以上に狩猟と漁撈に依存していました。それだけ豊かな自然が目前に広がっていたのでは投下労働力の割に収穫の望みの無い水稲耕作はさほど魅力的ではなかったのかもしれません、むしろそうした農耕民との交易上彼らとは違った生産物(交易品)を提供することのほうが取引上有利だったんでしょうか?
最後まとめのほうは私の個人的な感想で、おまけに裏づけもなんもしてませんのであまりその気にならないでくださいね、真に受けるより疑って調べてみましょう、それこそ勉強です。
さて次回は石狩低地帯から非常に広範囲に広がった江別太文化について紹介します。
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