江戸時代の死刑−山田浅右衛門家の話
担当:八十八舞太郎
○はじめに
その存続を巡って未だに激しい論争が繰り広げられている「死刑」制度。いわゆる「人道」に反した者に対する最高の刑罰として、古今東西あちこちにその制度がありました。
今回の背景である江戸時代にも、当然のようにその制度は存在しています。罪を犯した者に対する罰に加え、犯罪に対する抑止力という面もあったため、その手法は多種多様で酸鼻極まる光景だったとか。有名なところでは火刑や釜茹でしょうか。
凄まじいものとしては、両手足を牛にくくりつけ、一斉に走らせてバラバラに引き千切ってしまう「牛裂き」、罪人を首だけ残して地中に埋め、その首を鋸で挽き切る「鋸挽き(早く死なれても見せしめとしての効果がないので、わざと切れ味の悪い竹の鋸を用いる、通行人に鋸を挽いてもらえるように晒していた、という話もあるとか)」といったものがありました。
その中でも特に有名なのは、時代劇でおなじみの「打ち首」でしょう。単純に首を切り落とすだけでなく、落とした首を晒しものにする「獄門」というものもあります。面白いことに、罪人の首を切り落とす…という刑は、日本のみならずヨーロッパや西アジアなど、世界各地に存在していました。そこには、人のパーソナリティの最大の象徴である顔を胴から切り離すことで、重罪人の「存在そのもの」を現世から完全に抹殺する…という、単なる刑という枠を超えた根源的な心理のようなものを感じる気がします。
○人はそんなにヤワじゃない
さて、今回の主題の一つである斬首です。フィクションでは武器を振り下ろすや否やスパッと切り離される…というシーンがお馴染みですが、これが実際やってみると極めて難しい…というのは、人体の構造を少しでも勉強した人なら予想できることでしょう。
考えてもみてください。首は人間が生きるために最も大切な器官、脳を支えています。そんな場所が容易に破壊されるはずがありません。事実、ヨーロッパなどでは質量の大きな斧や大剣を用いて刑を執行してきたのですが、それですら一撃で切り落とすことが困難であり、2、3回目が必要となって悲惨な状態になってしまう…ということも少なくなかったそうです。その為にもっと質量があり、確実に首を切り落とせるギロチンが発明されたわけなのですが(このギロチン、無用な苦しみを与えないので「人道的な」刑具といわれていたそうです。不思議な話ですが)。
ここで日本の話に戻りましょう。日本の打ち首で用いられるのは御存じ日本刀。この日本刀、世界でも屈指の「斬れる」刃物であることは有名な話なのですが、それと現場での利便性とはまた別の話。首のような太い箇所を切り落とすには圧倒的に「質量」が足りないため、よほどの手慣れでない限り失敗する確率が高いのは想像できるでしょう。
力任せに叩き切ろうとすれば、刃が欠けて使い物にならなくなるのは明らか。そこで斬首刑を執行するための「プロ」が誕生したわけです。それが今回の主役である「山田浅右衛門(『朝』右衛門とも表記)」一族です。
○死刑執行専門家…山田浅右衛門
「山田浅右衛門」というのは一種の「屋号」のようなもので、初代浅右衛門、三代目浅右衛門…などというように、何代かにわたって存在していました。一見武士のように感じられますが、実はその身分は「浪人」であり、幕府に仕える正規の武士ではなかったのです。その特殊な稼業が「穢れ」の域であるところから武士という身分を避けた、浪人である方がその特殊な稼業や世襲をする際に都合がよかった、などと色々な理由が言われています。
さてこの浅右衛門家、斬首刑の執行は正確には「副業」であり、本業は「公儀御試御用」といって、将軍家に納められる刀剣の切れ味を実際に「試し斬り」をして確かめるという仕事をしていました。
通常試し斬りで用いられるのは、巻藁や青竹を束ねたものですが、この御試御用は武家の佩刀を確かめる一種の厳粛な儀式、実際の人間を用いなければなりません。その為に用いられていたのは…なんとなく想像できる通り、死罪人の死体でした。
浅右衛門家はこの試し斬りを専門とし、本来は武士が行うこの仕事を代行することで、その依頼料を得て生活していました。やがて、その腕を見込んで正規の首切り役人から斬首刑の代行を依頼されるようになり、浅右衛門家も試し斬りに必要な死体を容易に手に入れられることから、次第に斬首刑専門職としての地位が確立されてきた…ということです。
一太刀の下に人体を断つ、という稼業故、その剣の腕は目を見張るものがあります。「首の皮一枚」という言葉がありますが、これは本来斬首の際の作法で、首の皮一枚を残して刀を振り下ろし、首が落ちて傷付かないようにする…というものです。
剣に疎い人でもこの技術が恐ろしく難度の高いものだということはお分かりになるかと思いますが、この技術に精通していたのが浅右衛門家。更に「罪人の首筋に米粒一粒を置き、その米粒を真ん中で両断しながら斬首」「雨の日に濡れたくない罪人のために、左手で傘を持って右手一本で斬首」という逸話も残っています。信憑性は?ですけど…
刀剣の鑑定や斬首刑の執行という立場上、歴史上の多くの人間と関係がありました。「遠山の金さん」で有名な遠山景元や新撰組の土方歳三、勝海舟に黒田清隆といった面々が刀の鑑定を依頼したといいますし、浅右衛門家が斬首した有名人は、橋本佐内や吉田松陰、時代が下ると大久保利通暗殺の犯人である人物など多岐にわたります。
【裏辺所長より】
ちなみに、江戸時代に罪人を処刑する場所(お仕置き場)というのが品川の鈴ヶ森と千住の小塚原(こづかっぱら)の2ヵ所にありました(江戸の両御仕置場)。ここで御紹介するのは、山田浅右衛門ゆかりの千住の方です。明治のはじめに刑場が廃止されるまでに斬罪・磔(はりつけ)・獄門などの刑が執行され、何と20万人あまりが処刑されたとか。ブルブル・・・。
なお、ここで杉田玄白・前野良沢達は人体の解剖を見ます。そして「今まで読んだ本とは全然違っているではないか!」と奮起し、蘭学書である「ターヘル・アナトミア」の翻訳を四苦八苦しながら行い、「解体新書」を完成させるのです。
この敷地は現在、延命寺となっており、境内にある首切り地蔵(上写真)は刑死者の菩提を弔うために、1741(寛保元)年に建立されたものです。
○高級丸薬の材料は?…浅右衛門家の収入源
ところで、この山田浅右衛門家の収入、身分としては浪人なのでさぞかし苦労しただろう…と思いきや、意外にも裕福な暮らしを送っており、一説には数万石の大名に匹敵するほどの財力があったと言われています。どこからそのような財産が出てきたのでしょうか。
まずは本職、試し斬りの代行料及び鑑定料です。斬首刑執行の際の礼金がありそうですが、そちらの額は微々たるもの(打ち首に用いた刀の砥ぎ代、という説有)で、しかも仕事を譲ってくれたお礼として本来の首切り役人に渡されるため、おまけのようなものでした。本業の試し斬り料、鑑定料は、心付け次第とはいえかなりの額に上り、幕府公認ということで評判も上々。多くの人が依頼してきたこともあり、相当額の収入になったそうです。その気合の入れようは尋常ではなく、七代目浅右衛門吉利は亡くなる数分前まで刀を眺め続けていたそうな。
しかし、本業に匹敵、或いはそれすら上回ると言われている収入源というものが浅右衛門家にはありました。それが「死体そのもの」です。斬首刑執行後の死体は浅右衛門家の所有物になるのですが、それを利用して試し斬りをする以外に、死体から内臓だけを取り出す、ということをしていました。
人の内臓を何に用いたかというと…答えは「薬」です。人の肝、胆、脳などから作られた薬は、当時不治の病と恐れられていた結核などに効果がある、と噂されており、これらの薬を製造、販売することで莫大な収入を得ていたそうです。ある友人が浅右衛門家に泊まりに来た際、夜中に雨でもないのに「ポツ…ポツ…」という、何かが滴る音がするので、気になって翌日外を見てみると、軒下にどす黒い血が滴り落ちている人の内臓がいくつも吊り下げられていた…という話があるとか。また、製薬に用いる内臓を貯蔵するための蔵も所有していたそうで、その蔵の中にどのような光景が広がっていたかは…想像しない方がよいでしょう。
○涅槃斬り…人情家、山田浅右衛門
仕事とはいえ、人の命を断つ…ということはかなりの負担になるらしく、山田浅右衛門家では斬首刑を執行した夜、必ず宴会を催していたそうです。一晩中呑めや歌えやの大騒ぎ。隣家の職業がいわゆる「穢れ」の仕事で、しかも夜な夜な大宴会が行われている…隣人には「悪霊に憑かれた」「いや霊に憑かれないよう夜な夜な騒いでいるのだ」といった噂が立ったことでしょう。
しかしながら、その一方で死者に対する配慮を忘れない、心優しい面があります。莫大な収入は斬っていった者たちの供養に惜しみなく使いました。東京の池袋にある祥雲寺には、浅右衛門家が建立した「髻塚」と呼ばれる慰霊碑が残っています。また、処刑に臨んで、罪人が今際の際に詠む辞世の句を解するため、俳諧を学んでいたそうです(しかも歴代浅右衛門は俳人の称号も持っているそうな)。
…時代が明治に代わって、斬首刑が「野蛮な」刑として廃止になり(同時に、人の内臓を材料とするような薬も製造、販売が禁止されました)、山田浅右衛門家はその役目を終えました。死刑が人々の目につかなくなり、死体と人との接点がなくなった時、粛々と刀を振るい続け、人の死と隣り合ってきた山田浅右衛門家もまた、伝説のように語られる存在になってしまったのかもしれません。
参考文献
「項の貌」 渡辺淳一
「大江戸死体考」 氏家幹人
↑ PAGE TOP
data/titleeu.gif
| | | | | |