8回 ロシア帝国の滅亡
●日露戦争の敗北 |
そのような中、日本は宣戦布告なしにロシア艦隊が停泊する旅順と、朝鮮の仁川を急襲。ロシア太平洋艦隊の半分が倒されてしまいます。そこで戦争が開始。ロシアは大軍をシベリア方面に送り込み、日本軍と戦闘を開始します。
この戦争が国内経済に深刻な打撃を与え、反政府組織・運動に火をつけ、内相のプレーヴェはエスエル党の戦闘団に爆殺されます。また、レーニンやブレハーノフ達の社会民主党と日本の社会主義者達の結びつきもこの頃に強くなります。例えば、片山潜という日本社会主義者の代表格の人物は、社会主義インターナショナル・アムステルダム大会の壇上でプレハーノフと握手し、拍手喝采されています。
一方日露戦争は、双方とも多数の死傷者を出しながらもロシア側に不利な展開が続きます。有名なのは、乃木希典将軍による旅順攻略、すなわち無謀にひたすら兵士を突撃させた、あの悪名高い作戦。それでも、日本が勝利。また、ロシアが誇るピョートル大帝以来のバルチック艦隊は、長旅がたたって、対馬で東郷平八郎率いる連合艦隊に敗北(1905年5月)。これが、政府不信を徹底的に増大させます。
●血の日曜日事件 |
血の日曜日事件です。
まず1月9日、ガボン司祭は自らが率いる労働者団体とその家族10万人で、皇帝の冬の宮殿目指して行進を始めました。これは、その団体が警察の保護下の下、国策で作られた組織だったのですが、加入者の人が解雇されたことに怒り、抗議をしたのです。彼らは、ニコライ2世に労働者の窮状を訴え、「真実・正義(プラウダ)」の実現を求めます。
これに対し軍は威嚇の発砲をします。しかし、人々は行進を続けました。そうすると当然衝突が起こり、100人ほどが死亡するという悲劇が起こります。ここに、全国で抗議のストライキが発生。また、2月4日にはモスクワ総督セルゲイ大公が殺され、バルチック艦隊が敗北すると、戦艦ポチョムキン号水兵反乱などが発生。*Potemkin
こうした中、様々な階層・身分の人達が「集会」、すなわちソヴィエトを組織し、抗議が開かれるなど事態は深刻化していきます。ちなみにソヴィエトとは、元々はこのように集会とか、評議会といった意味のロシア語です。
●十月勅令 |
また、劣勢が続く日露戦争終結のため、アメリカに講和の仲介を依頼。日本も武器弾薬が底をつき始め、このアメリカの仲介に渡りに船と飛びつきます。
これが、ポーツマス会議。ロシア側の全権代表は久々登場のウィッテ。日本側は小村寿太郎です。
この会議において、以下のように決まります。
・朝鮮における日本の主権を認める
・南サハリンを日本に割譲
もちろん、仕方がないとはいえロシア側で不評なのは言うまでもありません。ますますストライキは加速し、各地にソヴィエトが形成。とうとう皇帝は「十月勅令」を出します。これは国会を作り、普通選挙も行い、法律は国会で定める、また自由権も保証するとします。また、ウィッテは新しくできた首相の座に就きます。ですが、レーニンらは、これに不満で抵抗をします。
そして1906年2〜3月に選挙が行われますが、社会民主党(ボリシェヴィキ・メンシェヴィキ両派)ともボイコット。結果、443議席中、資本家を中心とする自由主義の立憲民主党が153、農民派のトルドヴィキが107議席を獲得します。そして憲法である国家基本法が公布されますが、これは皇帝権が強いものでした。
それでも、第1回議会が開かれます。しかし、次の第2議会と共に政府に反抗的であったので解散させられます。こうしてロシア政府側は、第3議会でようやく政府に好意的な議員達を集めることに成功します。
そして政府の方は、ウィッテに代わり、名門貴族出身のストルイピン首相(1862〜1911年、任1906〜11年)の下で、農村共同体の解体と富農の育成がはかられます。つまり、農民に私有地をもたせて、豊かにしていこうと考えたのです。ところが議会の反対で上手くいかず、農民にも理解されず、無駄に農村内の貧富が拡大。社会不安が増大してしまいました。また、ストルイピンは元警察スパイのユダヤ人に暗殺されてしまいました。
●ラスプーチン |
そんなわけで、特に皇后はオカルト信仰に走ってしまいます。この頃は、フランス人のフィリップなるいかがわしい人物が「我らの友」として、皇帝一家に取り入りました。その甲斐あってか(まさか!)、1904年にアレクセイが誕生します。ところが、実はアレクセイは血友病という重い障害を持っていました。血が凝固しにくいんですな。ですから、怪我をすると大変!!血が、なかなか止まらなくなってしまうのです。
これを何とかしたいという母親の願いが、皇帝一家に悲劇をもたらします。そう、皇帝一家には、ラスプーチンという怪しげな男が近づき皇后の信頼を得、政治に口出しを始めます。
前にも述べましたが、皇太子アレクセイは血友病。この血友病をラスプーチンは治したか、症状を緩和させたかで、皇后の厚い信頼を得たのです。そのため、いくらストルイピンがラスプーチンを遠ざけようと画策しても皇后は抵抗し、皇帝もこれを追認。
何故そこまでしてラスプーチンを皇后が守るのか?
みんな解らず、愛人ではないのかという噂も立ち、ますます皇帝一家のイメージは悪化していきました。と実はこの血友病の件は、首相以下、国民の殆どに秘密にされていたのですね。そして、第1次世界大戦が皇帝一家に致命的な一撃を与えます。
●第1次世界大戦と二月革命 |
1914年に第1次世界大戦が起こり、愛国と言うことで各政党が戦争参加に支持を表明する中、レーニンは労働者が資本家階級の利益のために敵味方にわかれてたたかわされているという観点から戦争に反対していきます。
戦争の方は、2年目にはいると次第に近代的な総力戦にたえることができなくなり、ドイツ軍に次々に撃破され、国内では食糧や燃料不足が深刻になっていき、国民の不満は増大。さらに、ラスプーチンの一件で皇帝一家の権威失墜。
1916年12月、ラスプーチンは皇族と右翼議員に銃殺されます。1917年2月、人々はソヴィエトを組織(メンシェヴィキが中心)し、大規模なストライキを行います。さらに首都で反乱がおこり、これに軍隊も同調します。これを、二月革命といいます。ニコライ2世は革命を鎮圧できず、3月に退位。権力はソヴィエトの支持の下、立憲民主党のリヴォフ公爵を首相とする臨時政府の手にうつり、ニコライ2世は、弟のミハイル大公に譲位することにします。しかし、ミハイル大公は身の安全が保証されないから嫌だと固辞。こうして、ロシア帝国は終焉しました。
臨時政府は、あらゆる政治的社会的な性格な事件で有罪とされた者の大赦や、身分や信教・民族による差別の撤廃、普通直接選挙による地方自治体の選挙などを活動の原則としました。
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