歴史研究所世界史レポート
第8回 殉教のためのジハード 担当:村岡司浩<裏辺研究所特別顧問>

 先日、といっても研究所に原稿が掲載される頃には、かなり前のことになるが、テレビを見ていたら,自爆テロで死んだイスラム教を信じる若者の遺言ビデオが画面に映っていた。その中で彼は,「私はジハードのために死ぬことは怖くない、アッラーのために死ぬことができれば,死後、天国に行くことができるのだから。」と言っていた。

 その顔には微塵も恐怖は感じられず,むしろ私は彼の顔に喜びさえ感じた。そこで私たちは、彼をそのような考えにいたらせたイスラム教においての死について考えてみた。

 イスラム教においての死とは,死の天使が死後,人間から霊魂を抜き取るという肉体からの霊魂の分離だと考えられている。死を罪ととらえるキリスト教とは違い,自然的死に近い。睡眠のときも霊魂は神のとこに召されると考えられているので,一種の死と考えられている。

 死は誰も免れぬものであり,その時期は神のみぞ知るところとされている。ただ、神の道(ジハード)に倒れたもの(殉教者)については、彼らは神のみもとで十分な恵みを受け、天国において平安の中、永遠の命を送ることができるとされている。正しき信仰者は、天国へと死の天使によって導かれ,不信仰者は死ぬことも生きることもできない苦しみを地獄で、味合わされる。

 つまり、殉教のためのジハードは、イスラムにとって最大の栄誉であり,誰しもが望むべきものなのである。通常死とは神の定めたところによるものであるから,何人も,その予定する前に死んではならないとされている。つまり,自殺は禁止されているのである。だが,この自殺も信仰のため,つまり殉教のためであれば、よいどころか,最高の行いとされている。
 そこで,ひとつの疑問が生じた。ジハードとは殉教のことなのだろうか。そもそも,神によって,殺人は罪とされているイスラム教において,ジハードにおいての殺人はなぜ,よいのであろうか。ジハードとは、いったい何なのであろうか。

 ジハードとは一般に聖戦と訳され,イスラム世界の拡大、または防衛のための戦いをさす。しかし、元来の意味は、定まった目的のために努力することを言う。この努力はイスラム教徒に課せられた義務を果たすことであり,その義務も,個人の義務と総体としての教徒に課せられた義務とがある。個人の義務とは信仰告白、断食、礼拝、喜捨であり、ほとんどのイスラム教徒は、これを胸として生きている。一方,総体としての義務は、巡礼と聖戦である。ジハードにはこの二つの意味があったのだが,十字軍などの歴史的背景などによって、一部の教徒の間では聖戦を指すこととなった。

 しかも、この聖戦は理由(弾圧や迫害に対する抵抗)がなければ、行ってはいかない。つまり、あくまで報復のためのものなのである。しかも、報復はできるだけ放棄するべきものであり,相手が戦いを止めれば,こちらも戦いを止めなければならない。

 だが,一部の教徒においては,この聖戦こそが正義であり,全世界が真のイスラムとして現れるまで,続けられるべきものであるとされているのだ。

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