第9回 ニュートンと錬金術

担当:裏辺金好(乱心したか!ついにニュートンに手を出した!)

おまけ:微分積分先取権論争

 さて、前述した微分積分。
 これは、ニュートンの方が最初に考案していたみたいですが、発表はしなかった。一方、1684年に公式に発表したためドイツ人のライブニツが発表したため、どちらが先に見つけたかで大論争となった。
 彼らは会ったことはないものの手紙のやりとりは2回かあり(ただし、微分積分についてはニュートンは暗文にした。)、さらにライブニツはニュートンをはじめとする科学者の書簡の仲介をやっていたコリンズの家で、ニュートンの書簡を目にしたため、これが後に「ライブニツはニュートンの案を盗作した」と、ニュートン支持者に疑念を抱かせることになりました。

 そして、結局ライブニツの方が微分積分を早く発表。この微分積分というのはライブニツの提唱で、ニュートンはこれを流率法としています。これに対し、イギリスの数学者ウォリスがライブニツに「ニュートンの盗作だ!」と反論するも、ニュートン自身がライブニツ独自の発見だとし、取り敢えずは大事に至りませんでした。
ところが、ある学者が「微積分はニュートンが第一発見者。第二発見者の誰かさんはニュートンから何を借用したかは、ニュートンの書簡や原稿を見た人の判断に任せる」とライブニツを挑発。

 これにライブニツは怒り、正式にこの発見は私が最初だと主張。さらに、ニュートンはライブニツの研究を形を変えて使用したなどと述べたため、事態はイギリスVS大陸側学者の大論争に発展した。

 ライブニツはニュートンがが学長を務めるイギリス王立学会の調査を依頼するも、調査団のメンバーは全員がイギリス人で、不公正な調査結果が出され、会長であるニュートンもこれを黙認したため、ライブニツの死後も論争は続き、現在ではライブニツに先取権が認められている。
 高校の時の敵、微分積分には、これだけの大論争があったわけである。

 ニュートンは1727年没。独身だった。なお、1703年から死ぬまでイギリス最古の学術団体である、前述の王立協会の会長を務め、一方それに先だつ1699年からは造幣局長官に就任。1717年には政府に1ギニー金貨を銀21シリングとすることを提言し採用され、イギリスを実質的金本位制へと向かわせるなど、経済分野でも歴史に名を残しているのである。

参考文献
パラケルススからニュートンへ チャールズ・ウェブスター著 金子務監訳 平凡社選書
自然科学史入門 端山好○著(名前忘れた・・) 東海大学出版会
科学史こぼれ話 佐藤満彦著 恒星社厚生閣

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