四代将軍 徳川家綱


●徳川家綱 基本データ

 生没年 1641(寛永18)年〜1680(延宝8)年 40歳
 将軍在位 1651(慶安4)年〜1680(延宝8)年
 父:徳川家光 母:お楽の方 弟:徳川綱重 徳川綱吉 息子:なし
 

●業績

 ・寛文の治と呼ばれる文治政治を実施
 ・殉死を禁止

●考察・エピソード


 なかなか跡継ぎを生ませなかった家光。38歳にして、ようやく側室に生ませたのがこの家綱であった。その後は、綱重、綱吉と生まれるのだが、家光は48歳という若さで死去。そのため、家綱は僅か11歳で将軍職に就くのだが、数え年だから今の基準で言えばもっと若いことになる。

 社会不安が起こるのは当然で、早速秀忠・家光時代に改易されて職を失った浪人達に不穏な動きが発生。その最たるものが、慶安の変、すなわち由比正雪丸橋忠弥による幕府転覆計画である。幸い未然に発覚しこれを防ぐことが出来たが、以後幕府は、浪人を出さないよう改易を大幅に減少。また、末期養子の禁を解除するなど、これまでの武断政治から、文治政治へと方針を転換した。

 家綱の治世は、前半が家光時代からの重臣:松平信綱酒井忠勝阿部忠秋保科正之が取り仕切り、後半は酒井忠清によるワンマン・独政治が行われた。目立った混乱はなく、可もなく不可もなくといったところ。40歳の若さで死去した。

 なお、家綱死去直前、酒井忠清は「上様病気ご回復」を祈って、江戸城二ノ丸で盛大に酒盛りを実施し、同時に忠清所蔵の書画・名茶器の展覧会も開催し、老中以下800人が参加。これに負けじと翌日には老中稲葉政則が、それからしばらくして大久保忠朝も酒宴を実施。極めつけは、今まさに家綱が死去しようとしているところへ、水戸黄門こと徳川光圀が、すごーく堅い書物群を献上。死ぬ寸前の病人に、それを読めというのだろうか? そして家綱は死去した。ずいぶん「なめられた」ものである。

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