2回 古代〜約10世紀の大陸部諸国家(2)チャンパー

●南ヴェトナムのチャンパー

 純粋な意味で東南アジアの人達による国家としては、記録に残っている限りではヴェトナム中部・南部で起こったチャム人によるチャンパーです。チャム人は新石器時代よりこの地に居住していたといわれています。
 このチャンパー、中国の資料には、時代によって「林邑」「占城」「環王」と名前を変えて登場ています。どうやら、チャンパーという国は連合国家のような感じだったようです。その時に最も勢いにあった勢力が実権を握っていたと解釈されています。

 ともあれ、紀元後の192年に、林邑の土着の区長である区連という人物が、この地を征服していた(後漢)の日南郡に対して蜂起したことがこの国の起こりです。その頃漢は、宦官と官僚の争いなど国内が混乱していて(このあと間もなく滅亡する)、自国の南まで手が回りませんでした。そのため、区連は現在のトンキンあたりまで侵攻します。

 また、3〜4世紀頃に仏教やレンガ建築を初めとするインド文化が流入。王名も次第にインド風の名前になったり、またインドに修行にでてしまう王様がでたりとインドかぶれが多くでました。ただ、カースト制度のようなインドのシステムは入ってこなかった(か取りいれなかった)ようです。 

 そして、チャンパーは交易国家として中国と中東・アラブ地域の中継交易で栄えます。特に7世紀には中国で唐が、中東ではアッバース朝イスラム帝国という2つの大国が安定した支配をしていたことで、さらに中継交易が栄えます。主に、自国の香料、中国の絹布などで交易したと考えられています。

 しかし、チャンパーは戦に弱かったようで、度々中国の王朝の侵攻を受け、隋や唐などに貢ぎ物をしています。そして決定的な打撃を与えたのがヴェトナム独立を果たした黎桓の侵攻(982年)。これにより時の国王インドラヴァルマン4世(ちなみに、この頃は占城という国名)は南に遷都。そして当時中国を支配していた宋に支援を求めます。

 前に見たように宋は、黎桓に敗北し痛い目に遭っていたので、支援を実行。そのため、なんとか滅亡は免れました。しかし、この頃より交易はアラブ人や中国人に任されるようになります。

 そして、引き続きヴェトナムとカンボジアの侵攻(逆にカンボジアを支配したこともあったが)に悩まされながら、そして一時は都を攻略されても復興を果たします。しかし1412年、北ヴェトナムの陳朝大越国に侵攻され、都のヴィシャヤが陥落。ついに滅亡しました。

 と、いってもどうやらヴェトナムの支配権は完全なものではなかったらしく、その後も隙を見ては復活を果たします。そのため、チャンパーの滅亡年については本によってまちまち。長いものでは18世紀とするものもあります。

 現在、チャム人は東南アジア各地に散らばり少数民族になっています。一方、現在のヴェトナムでは日本の学者の呼びかけもあって、少しずつチャンパー時代の遺跡を見直す動きが見られています。


↑ PAGE TOP

data/titleeu.gif