第10回 アレクサンドロス3世のオリエント征服
○今回の年表
前334年 | マケドニアのアレクサンドロス3世が、ペルシアに向けて遠征を開始。 |
前332年 | アレクサンドロス3世、エジプトを征服し、アレクサンドリアを建設。 |
前330年 | アケメネス朝ペルシア、滅亡。 |
前323年 | アレクサンドロス3世死去。後継者争いの勃発。 |
前317年 | インドでマウリア朝が成立。 |
前312年 | セレコウス朝シリアの建国。 |
前306年 | プトレマイオス朝エジプトの建国。 |
前272年 | ローマ共和国、イタリア半島を統一。 |
前248年 | パルティア王国の建国。 |
○マケドニアの興隆
後継者争いの絶えないアケメネス朝ペルシアですが、それでも統治機構がしっかりしているため崩壊までには至らなかった事は前述しました。ところが、外的要因によって滅亡します。それが、マケドニアのアレクサンドロス3世による大遠征です。アレクサンドロス3世、通称アレキサンダー大王(前356〜前323年 位前336〜前323年)は、20歳で即位。その前までに、親父のフィリッポス2世がギリシアの辺境といえる存在だったマケドニアを強国にし、ギリシア全土の各ポリスを制圧していたことから、アレクサンドロス3世は、東方遠征を行う事になります。
○アレクサンドロス帝国
前334年、アレクサンドロス3世はアケメネス朝ペルシアに対して遠征を開始します。付き従うのはマケドニア兵の他、諸ポリスから集められた軍隊です。また、軍の編成は重騎兵、軽騎兵、長い槍を持つ歩兵と、3つの機動力を使い分ける形にしました。 このときのアケメネス朝の国王はダレイオス3世(前389頃〜前330 位336〜330年)。前2人の王が暗殺されていましたが、この王は実権を握っていた宦官を毒殺し、反乱を起こしたエジプトに侵攻し、再征服するなど、精力的に活動をしました。ところが、そんな王でもアレクサンドロス3世にはかなわなかった。
前333年、イッソスに於いてダレイオス3世は自ら軍を率いてこれを迎え撃ちに出ます。ところが、結果は敗北。その後も、戦いを挑みますが勝てなく、バビロンやスサの宮殿はアレクサンドロス3世軍に略奪されてしまいました。
▲ペルセポリスの全景
ダレイオス1世によってアケメネス朝の首都とされたペルセポリス。イラン南部シーラーズの北東に位置し、世界遺産に指定されています。
▲ペルセポリス
アレクサンドロス3世は、人心掌握が巧みでした。降伏したペルシア貴族の地位を安堵し、また行政組織を変更しないことで地元の混乱を押さえることに成功します。前332年には、エジプトにも遠征。ペルシアに抑圧されていたためエジプト人は、これを大いに歓迎し、アレクサンドロス3世はあっという間に占領します。そして、ナイル川の河口ににアレクサンドリアという大都市を建設します(アレクサンドロス3世の名にちなむ。なお、同種の街は各地に作られたが、その中でもエジプトのアレクサンドリアが発展した)。
また、この時アレクサンドロス3世はエジプトで信仰されていた太陽神アメンの神殿にも参拝し(エジプトの支配者ファラオはアメンの子孫と信じられていたため)、自分がエジプトの支配者であることを示しました、と同時にエジプトに配慮をしたのでしょう。
その後アレクサンドロス3世は北上し、バビロン、スサとペルシアの重要な都市を陥落させてゆきます。そして前330年、ダレイオス3世は部下の貴族ベッソスらによって殺されてしまいました。アレクサンドロス3世は、ダレイオスの遺体を、良きライバルとして丁重に埋葬したと言われています。
こうして、アレクサンドロス3世はギリシャ、エジプト、小アジアの広範囲をその支配地域に治めます。しかし、アレクサンドロス3世の遠征はそれだけでは終わりません。中央アジアのバクトリア、ソグディアナ(現トルクメニスタン)にまで侵攻し占領。
さらに前326年、アレクサンドロス3世はインダス川をわたり、パンジャーブ地方に侵入し、ヒダスペス(ジェルム)河畔からヒュファシス(ベアス)河畔まで進みます。しかし、いくらなんでも疲れた兵隊が「これ以上は無理です」と不満を述べ、さすがのアレクサンドロス3世もあきらめました。もちろん、この時までには最初からついてきた兵隊達の大半は戦死していたり、途中ではぐれたりしていたのは言うまでもありません。おそらく、アレクサンドロス3世の周りにはペルシアの人達やエジプトの人達が大勢いたことでしょう。
さてさて、アレクサンドロス3世はまた人種融合を目指します。そのためにはまず反乱を起こさせてはいけません。アレクサンドロス3世は、自らペルシアの習慣に従い、部下達にもそれを強制しました。このような姿勢は支配者には珍しいことです。ですが、それはアレクサンドロス3世の理想。ギリシャの人達にとってそれは苦痛でしかありません。
また、アレクサンドロス3世はさすがにペルシアに染まりすぎました。ペルシアの衣装を身につけ、またかの地の習慣である平伏の礼をギリシャの人にも強制します。当然反対する人物もでますが、処刑されます。
さらに仕上げとばかりに前324年、ペルシア人の貴婦人とマケドニアの貴族との集団結婚、および自らダレイオス3世の娘スタティラと結婚を行います。
ですが、前323年にアレクサンドロス3世は若くして病死しました。
さすがに彼自身も疲れたのでしょう。そして、彼が死ぬと集団結婚した者の多くは離婚し、人種融合の夢は消えてしまいました。
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